第344話音楽室にて

 次の日、哲也と拓哉が新入部員の教育担当だったので、僕は一人でピアノを弾いていた。

弾き終わると乾いた拍手の音と『ブラボー』という声が聞こえた。

振り向くとそこにはヴァレンタインが笑みを浮かべて立っていた。

いつの間に音楽室入ってきたのだろう?

全く気が付かなかった。


ダニーは

「幻想即興曲ですね」

と聞いてきた。


「はい」


「久しぶりに懐かしい音を聞いたような気がします」

とヴァレンタインはピアノに視線を移しながら言った。


「懐かしい音ですか?」


「そう。僕にとってはとっても大切な大切な友人であるピアニストが大事にしてきた音。一音一音魂を込めて生み出した音……あなたはそんな彼の魂を引き継いだかのような音の粒を生み出している」


「それは僕の父の事ですか?」

と僕は聞いた。


「そう。その通り」


 そう返事をするとヴァレンタインは天井を見上げて

「本当に懐かしい気分になりました」

と昔を思い出すように話し出した。


「この音楽室で私はあなたのお父さんのピアノを何度も聞いたことがあります。その時の情景が蘇ってきました。まさかその息子のピアノをここで聞くことができるとは思ってもいませんでしたが……」


オヤジがまだ高校生時代にこの音楽室にダニーも来た事があるなんて初めて聞いた。

オヤジや鈴原さんからもそんな話はひとことも出てきていなかったので、僕は表情には出さなかったが内心驚いていた。



「もう三十年近く前の事です。それ以前、私は若いころからシゲのオヤジさんに誘われて神戸に住んでいました。その縁もありそれからちょくちょく休暇のたびに神戸に滞在していました」

とヴァレンタインは冴子のお爺さんに誘われて神戸にやってきた事を語った。


「ちょうど客員でヨーロッパの国々のオーケストラで指揮を執っていたころです」

と昔の記憶を辿るように目を細めて一呼吸置くと話を続けた。


「あの北野町の屋敷であなたのお父さんのピアノを初めて聞いた時の衝撃は忘れられない経験です」

ヴァレンタインは冴子の屋敷でオヤジのピアノと初めて遭遇したようだ。


「私は指揮者ですがピアニストでもあります。その私が中学生だったあなたのお父さんのピアノを聞いた時、私の心は鷲掴みされた様な気持ちになりました……息を吞むとはこういうことを言うのだと初めて知りました。それほどあなたのお父さんのピアノは鮮烈な衝撃と共に私の心にまだ残っています」


 ヴァレンタインの話を僕は黙って聞いていた。

オヤジの若かりし頃の武勇伝は安藤さんや冴子のオヤジからそれなりに聞かされてはきたが、こうやってピアノに関しての話を聞くのは初めてだった。


「上手いピアニストは何人も見てきました。天才的な超絶技巧を弾きこなす若いピアニストも何人も見てきました。しかし君のお父さんはそれだけではなく、私に語り掛けてくるように私の心に響く音を響かせてきたのです。

オーソン・ウェルズの朗読を聴いているかの如くその情景が浮かんでくるのです。そう、あなたのお父さんの想いはピアノの一音一音となって一編の物語のように語りかけてくるのです。あどけない顔をした少年が老獪なピアニストのような音を出すのです……かと思えば情熱的な力強い荒々しい演奏も聞かせてくれる。信じられますか? 私は目の前のその少年を見てどうしても私の手で育てたくなった。『彼はどこまで昇華してくれるのだろうか?』見極めたくなったのです」


 まるでそこにピアノを弾いているオヤジがいるかのようにヴァレンタインは音楽室のピアノを見つめながら言った。

多分、彼はオヤジがピアノを弾いている情景を思い出していたのだと思う。


「そんなあなたのお父さんのピアノ聞くのが楽しみでした。『今年はどんなピアノを奏でてくれるのだろう』と期待しながら来日するのですが、予想以上に彼のピアノは成長していました。いや、予想を覆す音の連続だったかもしれない……」

ヴァレンタインはそこで話を止めた。

静かなる音楽室。


「……なのに、ある日突然彼はピアノを弾くのをやめてしまった」


 ヴァレンタインはひとことそういうと目を閉じて首を振った。

また音楽室に沈黙の時が訪れた、その後絞り出す様に呟いた。


「私が初めて聞いた一平のピアノ……それは、このショパンの幻想即興曲でした」


「ファーイーストにある日本で、ポーランドの大地を感じるような音を聞くとは思いもしませんでした。それを弾いていたのは中学生の少年です。彼はこの歳でどこまでショパンの魂に近づいているのか? 私があなたのお父さんのピアノに魅せられた理由はそれだけでも分かるでしょう?」

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