第176話 冴子と伊能先生
僕と宏美は店の前で彼らと別れてから、北野坂を散歩でもするかのようにゆっくりと上って行った。
夜の北野坂は昼間とはまた違った表情を見せる。そう、夜は大人の街のように見える。
そう言えば和樹がこの辺を歩いていたら職務質問され、補導されかかったとか言っていたな。家の近所だったので見逃してもらったとか言っていたが、通学途中に補導だけはされたくないものだ。
「今日は先生のところに行くの?」
宏美が思い出したように聞いてきた。
「ああ、今日はレッスンを受ける日やからな」
「そっかぁ。じゃあ、先に帰るね。夜またメールしてね」
と宏美はそういうと山本通りとの交差点で僕と別れた。僕はその宏美の後姿を見て何故か『なんだか寂しそうだな』と違和感を少し感じたが、思い当たる節も原因も何も浮かばなかった。
――気のせいか――
僕は宏美の後姿を暫く見送ってから伊能先生の家に向かった。
いつものようにピアノ部屋の扉を開けると、そこには渚さんではなく伊能先生と冴子が居た。
二人はピアノを弾いているのではなくて、ただ単に話をしていただけの様だった。
「あれ? なんでお前がここにおるんや? 瑞穂らに拉致されたんちゃうんか?」
「ああ、あれはお茶しただけや」
「なんや、それやったら宏美も連れて行ってやったら良かったのに……」
「宏美はあんたと帰りたそうやったからね」
「そんな事はないやろ?」
「ふん!」
と冴子は見下すように鼻で笑った。
「で、なんでお前がここにおんねん?」
「なにが?」
冴子は怪訝な表情で僕を睨んだ。
「お前はヴァイオリンに魂を売ったんとちゃうんかいな」
「なによ、その言い方。でも否定はしいひんけど」
「だったらなんでここにおんねん」
「ヴァイオリンに転向するとは言うたけど、ピアノを辞めるとはひとことも言うてないでぇ? 何か?」
と薄笑いを浮かべて冴子は言った。
「え?」
「私の才能をピアノだけに縛るのが勿体ないから、ヴァイオリンも弾く事にしたんよ。私って天才でしょ?」
と上から目線でのたまった。
素直に認めたくはなかったがあのヴァイオリンの音を聞いた後だったので、一瞬返事に詰まった。
冴子は僕の反応など、お構いなしに言葉を続けた。
「ただ、自分の中でけじめをつける意味もあってあそこで宣言したのよ」
と言うと目を伏せた。
僕はこの様子を黙って見ている伊能先生を見た。先生は穏やかな笑顔を見せて僕たち二人の会話を聞いていた。
「冴子ちゃんが本当に考えて出した結論だから先生は賛成よ。でもね。『ピアノもあるから』とは思ってほしくないの。本気でヴァイオリンと向き合って貰いたいのね。こんな事は冴子ちゃんには言われなくても分かっているのにね。先生、直ぐに余計な事を言っちゃうから」
と言って笑った。
「はい。先生。我儘を言ってごめんなさい」
と冴子は先生に謝った。
伊能先生は優しい笑顔で冴子を見て頷いた。
そしてピアノの上に置いてあった楽譜を僕に手渡した。
「ブラームス……?」
それにはブラームスのハンガリー舞曲 第一番とクレジットされていた。
僕は楽譜をパラパラとめくった後に冴子に手渡した。冴子はそれを受け取ると黙って楽譜を見つめていた。
「先生。これって……」
冴子は楽譜から顔を上げると先生に聞いた。
「そう、あなた達が昔二人で弾いた曲よ。覚えている?」
「覚えていますけど、なんでこれを今更……?」
冴子は怪訝な顔をして先生を見た。
「これを二人で弾いて欲しいの」
と、先生は涼しい顔で応えた。
「え? これをですか?」
僕たち二人は同時に先生に聞き返した。
「そうよ。もう弾けない?」
「……そんな事は無いですけど……」
と僕は応えて冴子を見た。
彼女もどう応えて良いのか分からないという表情で見つめ返してきた。
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