第175話 帰り道
「まあ、分かってんねん。焦ってもどうもならんって。今は弾いて弾いて弾き切って自分で見つけるしかないって。先生にも言われてんねん」
今の哲也は誰に対しても恋愛感情なんか湧かないんだろうな。案外、彼はストイックな性格なのかもしれない。
彼の言葉を聞いて僕たちの邪推が入る余地はないように思えた。
「そうやったな」
と拓哉は納得したように頷いて僕を見た。
僕も同じように頷いた。
「でもな、今日の冴子のひとことがホンマに一番効いたわ。ドスンと腹に一発食らったような気がするわ」
哲也はそう言って清々し気な表情を見せた。
どうやら少しだけ出口が見えてきたのかもしれない。
「まあ、あれを聞かされた後やからなぁ……」
と拓哉が言った。僕もそれはとても理解できた。
「冴子、恰好良かったな。あの演奏……」
哲也は冴子の演奏を思い出しているようだ。そして同意を求めるように僕を見た。
「ちょっとな」
「うん」
僕達三人は顔を見合わせて笑った。乾いた笑いだったが、僕はなんとなく心地よかった。爽やかな敗北感のようなものも感じていた。多分、哲也も拓哉も同じことを感じていただろう。
「なあ、もう一曲だけ弾かへん?」
拓哉が言った。
「なに弾くん?」
哲也が聞いた。
「ピアノマン……」
と拓哉は遠慮がちに小声で言った。
「またかぁ?」「それ好きやな、お前」
と僕と哲也は少し呆れた様なうんざりした様な口調で言った。
「え? アカンか?」
「エエで」
僕と哲也は笑って応えた。
言うほどうんざりもしていなかった。
それよりもいつもハーモニカを持って歩いている拓哉君に僕はいつも感心している。
しまいかけた楽器を取り出して、僕たちは最後の曲を演奏した。
哲也の音は吹っ切れたような伸びやかな音だった。いつもこの音を出していたらいいのに……と僕は思いながらピアノを弾いた。
それは拓哉も同じ事を思っていたようで、僕と目が合うと苦笑いを返して来た。
哲也は僕達を敢えて見ないふりして弓を引いていた。
良い旋律だ。
今日一番の音だな。
哲也のチェロはちゃんと歌えていた。
本当にいい音だ……この音のどこに彼は不満を持っているというのだ? 僕は不思議だ。
でも、今は
気持ちがいい。
それが全てだった。
演奏が終わると同時に音楽室の扉が少し開いて宏美が顔を覗かせた。
彼女はこの演奏が終わるまで、扉の前で待っていた様だった。
僕の顔を見ると
「まだやる?」
と聞いてきた。
「いや、今終わったところや」
と僕が応えると
「一緒に帰る?」
と宏美は聞いた。
「うん。冴子は?」
冴子の姿が見えないのが少し気になった。
「冴ちゃんは瑞穂とシノンと帰ったよ。あの二人が『冴子の心境の変化を聞きたい』と言って拉致していったわ」
と笑いながら答えた。
「そうなんや」
それを聞いて哲也も拓哉も呆れたように笑った。
「じゃあ、帰ろか?」
僕達は四人でダラダラと歩きながら一緒に校門を出た。
陽はまだ落ちていないが、もう夕暮れが間近に迫っていた。
そのまま僕達は北野坂に向かって坂道を下って行った。
歩きながら僕は宏美に
「今日の冴子の演奏凄かったなぁ」
と話しかけた。宏美なら何か知っているのではないかと思いながら聞いたのだが
「うん」
と宏美は軽く頷いただけだった。
「あれは正直ビビったわ」
哲也が話に入ってきた。
「あんなにヴァイオリンも弾けるとは思わんかったわ。でも、あれだけ弾けたら転向するのも分かるような気もするなぁ」
と拓哉も驚いたような表情で言った。
「まあなぁ。俺もあんなに弾けるようになっているとは思ってなかったわ」
と僕も拓哉と同意見だった。
「宏美は冴子がヴァイオリンに転向するのを知っていたん?」
哲也が宏美に聞いた。
「え? ううん。私も今日初めて聞いた……」
宏美は首を横に振った。
「え? そうなんや。じゃあ、俺らと同じ?」
「うん」
と宏美は小さい声で頷いた。
それを聞いて僕は不思議な想いにかられていた。僕は宏美が既にその事を知っていると思っていた。だから音楽室で宏美はあんな険しい表情をしていたと思っていた。
あれはどう見ても何かを知っている顔だろう。
でも僕は、ここでそれ以上宏美を追求するような真似はしなかった。
もし知っていたとしても、ここでは言いたくない理由が何かあるかもしれないと考えたからだ。
宏美と冴子は幼なじみで仲が良い。その二人の間の事を詮索するほど、僕も浅い付き合いではないと思っていた。
そして何よりも何かを知っていれば宏美は、僕には絶対に話をしてくれると信じていた。
「そうなんやぁ」
哲也も拓哉も僕と同じように宏美なら知ってると思っていた様だ。
北野坂に出ると本来なら僕と宏美はこのまま山本通りを西に向かって帰るのだが、今日は哲也と拓哉に付き合って駅前のハンバーガーショップに行くことにした。
またこの坂を上らねばならないのかと思うと少しうんざりしたが、実は四人ともまだ冴子のヴァイオリンの余韻が抜けきれず、まっすぐに家に帰る気になれなかった。
店内でチーズバーガーにかぶりつきながら冴子の話をする哲也は、音楽室に居た時とは違っていつも通りの哲也だった。
彼の中でも気持ちの中で踏ん切りがついたのかもしれない。
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