第174話 午後の練習


 その日は僕と拓哉は哲也が納得するまで、彼の演奏に付き合わされた。

哲也も冴子の演奏を聞いて何か感じる事があったようだ。ウジウジと考えていても仕方がないという事なんだろう。考えたところでチェロが上手くなるわけでもない。納得するまで弾くしかない。


「そろそろ終わろうか? もう六時やぞ」

拓哉が音楽室の壁時計を見ながらそう言った。流石の拓哉も疲れが出てきたようだ。


「ああ。もうそんな時間かぁ……」

哲也が呟いた。


「哲ちゃん、お前、そろそろコンクール準備せなあかんのやろ? 暫くは一緒に練習するのを止めよか?」

と拓哉が声を掛けた。


「いや、まだ大丈夫や。お前らと弾いている方が気がまぎれる」


「いや、それ、あかんやろ」

拓哉が突っ込んだ。


 哲也は無言だった。

まだこいつは逃げているのか? 現実を直視するのを怖がっているのか? と僕は思った。


 哲也は楽器を片付けながら

「ちゃうねん。お前らと弾いていると弾く事に没頭できるねん。余計な事を考えんようになんねん。でもな、一人で弾いているとどうも考えてしまう」


「いや、だからそれって逃げやろう?」

と拓哉がまたツッコんだ。


「ちゃう……いや。そうかもしれんなぁ……」

哲也はそういうとチェロケースをパタンと閉じた。


「亮平、お前はどうすんねん? コンクール出るんか?」

チェロケースを見つめたまま哲也は僕に聞いてきた。


「え? 俺かぁ……実は迷ってんねん。出ようかどうしようか」


「そうか。まだ決めてないんや」


「うん。一応申し込みは済んでんねんけど、もう一つ気分が乗らん」

と僕は正直に今の本音を答えた。


「そっか……」

哲也はそう言うとそれ以上この話題を続けなかった。


「哲也……お前が欲しいのは自分の音なんやろ?」

僕は哲也のその何となく寂し気な姿を見て、思わず声を掛けてしまった。


 僕の耳からずっと冴子が哲也に言った言葉が離れずに残っていた。


彼女は言った。

『これが私の音や!』


 そう、あのヴァイオリンの音色、あの旋律、全てが冴子の音だった。僕も初めて聞く冴子の本気の音だった。彼女は自分の音を見つけた。少なくとも自分だけのタッチを手に入れた。


「ああ……判ってんねん。そうや。俺には自分の音が無い。なぁ……亮平。お前はなんでそれを手に入れられたん?」

と哲也はすがるような目で僕を見た。

こんな表情の哲也を見たのは初めてだった。


「俺も手に入れた訳やない」

と否定したが

「そんな事はないやろ。お前のピアノはすぐにお前だと分かるわ。あの音はお前だけの音や。なんでそれがお前には在って俺にはないんや?」


「そんな事を聞かれても困るわ。俺にも分からん」

と僕は困惑しながら哲也に答えた。哲也には哲也の音色がちゃんとあると僕は思っていたが、彼はそういう風に自分の音色を見てはいなかった。


 哲也は助けを求めるように

「たっくん! お前はどうやねん?」

と聞いた。


「俺かぁ……俺は自分の音なんかないなぁ……まだそれでええと思っとるからなぁ」


「そうなん?」

と思わず僕が聞き返してしまった。


「ああ。俺はお前らみたいに上手くないからな。今は個性よりも正確な音を弾くので精一杯やわ……俺から言わしたら、哲っちゃんのは贅沢な悩みやな」

そう言うと自嘲気味に軽く鼻で笑った。


 それを聞いて哲也が言った。

「贅沢な悩みか……そうかもなぁ……今日な、冴子の音を聞いて震えたわ。正直、ビビったわ。あんな音を出すなんて信じられへんかったわ」

僕と拓哉は哲也のその言葉に頷いた。


「そんで、あのひとことは効いたなぁ……」

と哲也はしみじみとした声で言った。

冴子のひとことは本当に彼の心の奥底まで届いた言葉だったようだ。


「惚れたか? 哲也」

拓哉が笑いながら言った。


「うん……って、アホか、なんでそうなんねん」


「そうやな。お前には瑞穂がおるもんな」

と僕も哲也にツッコんだ。


「うん……って、アホ、それこそちゃうわ! 二段落ちさせるな」

そう言うと哲也も笑った。


「ふ~ん。そうかなぁ?」

と拓哉は哲也のいう事に納得していないようだった。僕も本当は哲也と瑞穂は良い感じの仲だと思っている。できればそこはもっと拓哉にツッコんでもらいたかった。

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