第190話 もう一度

 それはさて置き僕は再び鍵盤に指を置いた。

気持ちを切り替えてもう一度バッハの声を聞かねばならない。


 鍵盤をじっと見つめて意識を集中させた。本来、今ここで鳴るべき音の粒を出す!……僕はゆっくりと息を吸って、一呼吸溜めてから指を鍵盤に沈めた。柔らかい音の粒が零れ出た。

お嬢に会ってから魑魅魍魎の類の余計なものを沢山見る羽目になったが、この景色を見れるようになった事だけは感謝していた。


――そうだ。この音の景色を見たかったんだ――


 僕は音の粒を目で追いかけながら、もう少しで音楽の神様ミューズにも嫌われるところだったと思い返していた。


 たとえどんな状況であってもピアノを弾くという事はそういう事だ。あのままオヤジの前でさっきみたいなピアノを弾いていたら、オヤジにまで見下されてしまいかねなかった。この景色ならオヤジも何も言わないだろう。


 どんな時でも最善の音の粒を奏でる事を忘れてはならない。

何かをやり遂げるという事は、本当に厳しい事なんだと今更ながらに僕は理解した。


 音の粒が静かにそれでいてはっきりとした輪郭でピアノから散っていく。

音の波の中に僕は漂っているような気持になった。このまま溺れてもいいとさえ思ったが、それは収拾がつかなってしまいそうな気がしていた。僕は演奏者だ。音の粒に溺れていては洒落にならない。


「今度はどう?」

二曲を弾き終わって僕はレーシーに聞いた。


「うん。心地よい緊張感が漂ういい音色だったわ。そもそも弾いている亮平が楽しんで弾いているのが分かる音だったわ」


「そう?」


「そうよ。自分でも分かったでしょ? 」

レーシーは満足そうに答えた。


「うん」

僕は素直に頷いた。


「いつもの亮平の音の粒だったわ。本当に楽しんでいる時の……」


「でもいつも楽しんで弾いてばかりもいられないだろうけど」

僕は鍵盤に目を落として言った。


「何故?」

レーシーは不思議そうに僕を見つめた。


「だってコンクールなんて参加するだけで緊張するやん」


「緊張しているの?」


「いや、僕はしないけど……するかもしれんやん」

驚くほど見事に僕は緊張も何もしていなかった。

今はコンクールで冴子を前にどんな演奏をしてやろうかとそれだけが楽しみだった。さっきまでのどうでも良いという気持ちは完全に消えていた。


 レーシーにもそれが分かっていた様だ。

「思ってもいないくせに……まあ、敢えて言って欲しそうだから言ってあげるけど、もしそんな事を少しでも考えているのだったとしたら、楽しみながら弾けるようになるまで練習すれば済む事よ」


「え?」

何となく僕もそう思っていたが、ひとことで言い切られてしまうととなんか新鮮な驚きがあった。

しかしなんとなくだが今のセリフはレーシーらしくない大人の口調に聞こえた。でもそれもレーシーなんだなとすぐに納得できた。


「なにが『え?』よ。そんな事を言っている時点でぬるいわよ。やっぱり敢えて言ってあげて良かったわ」


「本当にレーシーは厳しいな……」


「そう? 当たり前のことを言っているだけだと思うけどね」

レーシーは容赦が無かった。でも彼女のいう事はとても理解できた。

そう、自分が楽しんで弾けるまでちゃんと練習する。当たり前の事だ。でもそれが出来ないから人は言い訳を用意する。自分の音に自分自身が満足していないのに楽しめる訳がない。人前で弾く以前の問題だ。


 それに余計な緊張感は聴衆に伝わる。しかしその当たり前に到達するのは容易ではない。それを分かった上で敢えてレーシーは言ってくれているのだろう……僕はそう解釈した。


「まあ、言わんとする事は分かるけど……」

そう思いながらも、素直に受け入れられない不思議な気持ちだった。もし僕がレーシーの立場なら同じような事を言ったかもしれないのに。


 分かったような気になっているのと本当に理解しているのとでは、心構えからして根本的に違う。それは音に現れる……。


 僕のそんな未熟な甘えをレーシーに抉(えぐ)り出されたような気がしていた。

分かった様な気になっていたが、全く身についていなかった。


 『コンクールだからやる気が出ない』とは言い訳にしか過ぎない。どこかで僕はその思いを断ち切る言葉を待っていたのかもしれない。 


 そんな自分自身では踏ん切りをつけられなかった姑息な自分に気が付いて、僕は自分に対してちょっと自己嫌悪を感じた。


 その時、僕の携帯が鳴った。

オヤジからだった。

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