第235話父と娘

「それとな。冴子はピアノ辞めへんで」

と話題を変えるようにオヤジは唐突に冴子の事を話し出した。もう笑ってもいなかった。


「嘘?」

鈴原さんと僕は同時に聞いた。


「あんな演奏をしてんぞぉ。そんなもん辞められるか。まだまだ冴子は伸びるな。間違いない。本人も気が付いてるはずや」


「これは俺の勝手な想像やねんけどな。冴子は亮平の本気のピアノになら負けても納得するつもりやったんやないのかと思う。それ以外は亮平に負ける気は無かったんやないのかな。コンクールの成績よりもそっちの方が重要やったんとちゃうかな? ま、これも俺の想像やけどな」


 僕と鈴原さんは黙ってオヤジの話を聞いていた。オヤジの話の全てに同意できるわけではないが、否定する要素も無かった。


「そう思たんは、冴子は亮平に負けても嬉しそうやったやろ? あれ見た時にふとそう思ったんや。もしかしたらホンマに最初から亮平の目を覚ますのだけが目的やったのかもしれんなぁ」

と言った。


「そんな事は……」

と僕は言いかけて言葉に詰まった。


 あの日の冴子の表情や言葉、そして演奏を思い出して、オヤジの言葉に反論する事が出来なかった。

本当にオヤジの言う通り、あのコンクールに冴子は自分のピアノを懸けて僕のぬるい根性を叩き直そうとしてくれたのか? もしそうなら、そんな事も分からずに僕はのほほんとコンクールに出ようと考えていたのか……レーシーに諭されなかったら僕はどうなっていたんだろうか? ひょっとしてレーシーには全てが見えていたのか?


 そんな事を考えると、今は自分の浅はかさにほとほと嫌気がさしてきた。冷汗が湧きだしてくるのが分かった。


冴子の目的がどうあれ、本当に僕はぬるま湯の中で生きてきたという事を実感していた。


「それとな……冴子はピアノを弾く楽しさを本当に分かってきたような気がするなぁ。勝ち負けよりももっと大事なもんの存在を」

とオヤジは呟くように言った。


 そんなオヤジの言葉を聞きながらも、僕は一人自己嫌悪に陥ていた。


「うちの娘のヴァイオリンはどうやねん?」

と鈴原さんが聞いた。



「ヴァイオリンなぁ……お前、冴子のヴァイオリンをちゃんと聞いた事ないんか?」

とオヤジは鈴原さんの顔を覗き込むように聞いた。


「え、あ、ああ。正直に言うとピアノ程は聞いてない」

と焦ったように鈴原さんは答えた。


「そういう場合は嘘でもええから『よう知っとる』とかいうもんや」

とオヤジは笑いながらグラスに口をつけた。

そして静かにグラスを置くと

「あれは文句なく才能やな。なんでお前の娘がそんな才能があるのか分からんが、間違いなく天は二物を与えとるわなぁ」

と言ってまた笑った。でもその表情からはオヤジが本気でそう思っているのは伝わってきた。


「そうかぁ……」

鈴原さんはそう言うとビールを一気に飲んで

「俺にもフィディックをロック。ダブルで」

と言った。


「ほ、珍しい」

と安藤さんが驚いた表情を見せて笑った。

安藤さんが目の前にグラスを置くと鈴原さんはそれを一気に半分ぐらい飲んだ。


「それを聞いて安心したけど、なんか気分的に複雑やわぁ……」

と言いながらグラスを置いた。

両手でグラスを抱えるように持ったままだった。


「何がぁ?」

安藤さんが聞いた。


「なぁ……一平。ホンマに冴子は勝ち負けには拘ってなかったんかぁ? 『亮平だけには負けた無い』っていつも言うてたやん」

鈴原さんはオヤジに問いかけた。



「さあなぁ……本音は俺にも分からん。でもな、発表があって亮平に負けたのが分かった瞬間でも、『負けてもうた』と言いながらも冴子は笑ってたやろう? 本気で勝ちに行って負けたんやったら、いつもの冴子やったらあんな顔せぇへんやろ」

とオヤジは言った。確かに冴子は僕にも同じように笑顔を見せていた。さばさばしたような笑顔にも見えたので、僕は冴子が全力を出し切った事に満足していたんだろうとその時は思っていた。


「そっかぁ……そうやったなぁ……わし、なぁんも気ぃ付かんと単純に『全国二位おめでとう』って浮かれとったわ」


「別にそれでええやん。日頃から娘らに何にもかまってやってないねんから、今更気が付かんでもええやん」

とオヤジは軽く言った。


「でもなぁ……」


「娘が結果に納得しとるのに親がとやかく口を出すな。 ちゃうか?」


「まあ、そうなんやけどなぁ」

と鈴原さんは煮え切らない。まだわだかまりがあるようだ。


「ホンマに面倒くさいやっちゃなぁ。お前の娘はな、お前の『おめでとう』のひとことが一番嬉しかってんぞ。そんなんも気が付かんのか?」

とオヤジはイラついたように言った。


「え……そうなん?」


「当ったり前やろが! 日頃、娘と一緒におってやらんから距離感が解らんようになってもうとるんやろが。こんな簡単な事ぐらい察してやれよ」

とオヤジは呆れ気味に言った。


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