第234話本音
鈴原さんは黙ってオヤジの話を聞いていたが、聞きながら何かを考えているようだった。
オヤジもそれに気が付いたようだ。僕の頭越しに暫く鈴原さんの顔見つめていたが、おもむろに
「冴子は本気で亮平のピアノを……と言うか勝負とは別に、腹を括り切れていない亮平の性根を叩き直したかったかもしれん」
と言った。
その言葉を聞いて鈴原さんは目を見開いてオヤジの顔を見つめた。
オヤジはそれを気にする事もなく話を続けた。
「間違いなく言える事が一つだけあるわ」
「なんや? それは?」
鈴原さんは眉間に軽く皺を寄せてオヤジ聞き返した。
「冴子のピアノは『怒り』のピアノやった」
「怒り?」
鈴原さんは怪訝な顔をしていた。オヤジの言葉に納得がいっていないようだ。それは僕も同じだった。僕自身、冴子の音から怒りを感じた事はあまりなかった。
「ああ、そうや。『怒り』と言うか『イラついている』とでも言おうか……兎に角、冴子は亮平に怒ってたわ」
「なんで俺に?」
僕は思わず二人の会話に口を挟んでしまった。
「冴子はな、お前のピアノが羨ましかったんや。亮平の才能は昔から冴子が一番認めとったわ。なのに我が息子はそんな事も気が付かんと、のほほ~んと何も考えずに日々怠惰に生きとった訳や。冴子に言わしたら『天が与えた折角の才能を無駄にしてる』ちゅうことやな」
オヤジはそう言ってグラスを口に運んだ。
「やっとピアノに目覚めたと思ったら、相変わらずの能天気ぶり。『このバカをどうしたら目を覚まさせる事が出来るのか?』と考えていたみたいやな。その結論が、今回のコンクールやったんやろう」
「それはホンマか?」
鈴原さんは納得がいかないと言った表情のままオヤジに聞いた。
「ああ、これは間違いない。自分の才能を無駄遣いしているバカがどうしても許せなかったんやろう。あの子はそう言う子や」
そう言うとグラスの酒を飲み干して安藤さんに手渡した。
安藤さんは黙って受け取ると、新しいグラスに氷を入れた。
グレンフィディックがグラスに注がれるのを見つめながら
「それに冴子はね。不思議と一度も『亮平に勝つにはどうするのか?』って聞いてこんかった。兎に角『おじさんの音を教えて』しか言わんかった。しかし俺の音をそのまんまでは亮平に一泡吹かせる事は出来ても、コンクールで絶対に勝てる音とは言えん。だから冴子の目的はだた単に亮平に対する嫌がらせか? とかも思ってたけどな」
と軽く笑いながらオヤジは言った。
「なんでうちの娘が亮平の為にそんな事をするんや?」
と鈴原さんが聞いた。
「亮平の為か……そうかもな。でも、そんなもん俺は知らん……ただな、冴子がこんな事言うてたな。『昔から亮平のピアノの音を聞いてきたけど、自分があまりにも平凡に見えて弾くのが嫌になった事が何度もある』って。『それが高校に入ってからは更に音が変わって、もう絶対に勝てんっと悟った』って。だから負けず嫌いの冴子にしては珍しい弱気なセリフやなって思っていたんや。もしかしたらピアノ辞めるかもなぁという予感はあった」
思わず僕は
「冴子のピアノは全然悪くないやん。どちらかと言えば個性的なええ音やと思うていたけど」
と口を挟んだ。冴子のピアノは女子高生とは思えない力のある音を響かせながらも、繊細な指使いが独特の雰囲気を作り上げていた。それが彼女の強みで個性だと思っていた。
オヤジは
「そうや。全く悪くない。もちろん辞める必要なんか全然あらへん。今までコンクールでちゃんと入賞もしているしな。何よりも自分の音を持っとる。だから冴子が『辞める』と言ったのは、コンクールに向けての意気込みを示したんやと最初は思っていたんや……けどな……」
と言った。
「けど?」
「さっきも言うたけど自分のこれまでの音を捨ててやで、半年やそこいらで他人のピアノがモノできると思うか? それもコンクールの予選を勝ち抜きながらやで」
とオヤジは僕の顔を見て言った。
「それは厳しいと思う」
僕ならそんな無謀な真似は絶対にしない。
「そうや。普通に考えたらあり得へん行為や。でも冴子はそれを選んだ。今までの自分の音を捨てて俺の音を取りに来た。それを見ていたら『この子は本気なんや』って言うのは分かったわ。本気で辞めてもええと思うぐらい腹を括っているのは俺でも分かったわ」
僕はなぜ冴子がそこまでオヤジのピアノに固執するかが分からなかった。それとも本当にオヤジが言うように冴子が自分のピアノを捨ててまで僕の優柔不断なこの性根を叩き直そうとしてくれたのか? 自分のピアノを捨ててまで? 僕は軽く頭が混乱していた。
オヤジは話を続けた。
「そういえば冴子が『辞めると決めてからは亮平のピアノの音がとっても好きになった』とか言うとったな。それを聞いて『もしかしてピアノを辞める事は彼女の中では既定路線で、辞めるからには華々しく散ったろか』みたいな事で俺のピアノを習いたかったのかなとか何となく思ったけどな。ま、とにかく、昔から冴子は亮平の音が好きやったんやろう。でも自分がピアノをやる限り、それを素直に認められなかったんとちゃうかな? あまりにも暢気すぎる星の王子様を見ていたらそんな気も失せるってな」
「だから辞めてヴァイオリンに転向すると決めたから、素直に聞けるようになったっていう事か?」
と鈴原さんが呟いた。
「多分な。俺はそう思ってるけど」
「ふむ」
鈴原さんはそう言ってまた考え込んだ。
「で、目論見通りコンクールの当日、冴子は最高の演奏をしてくれたわ。あそこまで本番で弾けるとは思わなんだけど、あの子はやりよったわ。その上。良い感じの順番で亮平は冴子の後に弾くことになったしな。逆やったら何の意味もないからな。で、冴子の演奏を聞いて亮平は頭の中が真っ白けや」
と憎たらしいほど楽しそうにオヤジは言った。
その時の事を思い出して僕はオヤジの首を絞めてやろうかと思った。
「このままやったら冴子の勝ちで終わるんやろうなと思ったら、何故か我が息子は立て直しよった。それも短時間に……あれには俺も驚いた。元々イチかバチかでやった事やし、頭の中が真っ白のまま終わる公算の方が大やってんけど、なんでか、こ奴は持ち直した上に、今までの最高の演奏をしよった」
と呆れたように言った。
「無我夢中やった……」
「それでええんや。自分で自分に縛りをかけていたからな。そこまで追い込まれんと判らん位にな」
「多分、そうやったと思う」
オヤジは頷くと
「舞台に上がったらな、後はピアノに任せんのや」
と言った。
「ピアノに?」
「そうや。それだけのピアノは今まで弾いてきたはずやろ? ファイナルの舞台に上がるという事は『それを許された人間や』という証明や。もう何も余計な事を考える必要はない。だから後はピアノに任せたらええ。お前ならその意味が分かるやろ?」
「うん。なんとなくやけど分かる」
「何も考えずにお前の感じた音をそのまま表現する。それがお前の音や。それが許されるのもお前の個性や」
「そうなんや……」
「それを人は才能と呼ぶ」
と人差し指を鼻の頭に持ってきて、決め台詞のようにオヤジは言った。
「え? そうなん?」
「ああ……多分な」
と、そこでオヤジは笑った。今までの真剣な表情は何だったんだ? どこまで本気なのかよく分からんオヤジだ。
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