第233話 亮平のピアノ

「なぁ、ちょっと聞いてええかぁ?」

と今まで黙ってオヤジの話を聞いていた安藤さんが口を開いた。


「ああ? 何を?」

オヤジが訝しがるような視線を安藤さんに向けた。


「話の腰を折るようで悪いんやけど、さっきから聞いてたら亮平のピアノの音がまるでダメなような口ぶりやん。昔から亮平はピアノは上手かったんとちゃうんか?」


オヤジはそれにはすぐに答えず黙ってグラスに口をつけ、安藤さんの話を聞いていた。


「コンクールに対する気構えが全くないのは判ったけど、それでも亮平なら誰にも負けへんのとちゃうの?」

と安藤さんは言葉を続けた。


 オヤジは軽く息を吸い込んでから

「まあな。そこいらの奴に亮平が技術と正確さで劣る事は無いやろう。全国でもそこそこは行けたと思う。こいつの取り得は譜面通り正確に弾く事やからな。なんでコンクールの舞台であんなにミスなく弾けるのか不思議ではあるけどな」

と笑いながら言った。


「だったら、冴子を使ってわざわざ亮平を追い込まんでもええのとちゃうの?」


「え? 追い込まなおもろないやん?」

とオヤジは驚いたように言った。


「もうそれはええ」

と安藤さんはうんざりしたような表情でオヤジの言葉を遮った。


「ふん」

と言うとオヤジはグラスのフィディックを飲み干して、安藤さんを睨めつけながら突き出した。


「確かに亮平は技術も表現力もええもんもっとる。親の贔屓目ではなく、それは間違いないわ。コンクールでも譜面通り正確に弾きよるし、表現力もええ。作者の意思の範囲内で勝手な解釈もない。コンクールには申し分のない弾き方や」


「だったらなんでや?」

と安藤さんが新しいグラスにグレンフィディックを注ぎながら聞いた。


「そんなピアノで人の心に何かを残す事ができるんか?」

と安藤さんを見据えるように言った。それは初めて見るオヤジの真剣な表情だったかもしれない。


 オヤジのそのひとことは僕の心に響いた。僕がピアニストになると決めたのは、表現者になりたいと思ったからだ。その表現方法がピアノを弾くという事だっただけだ。

なんのための表現者か? それは今オヤジが言ったひとことに尽きる。そう、人の心に何かを残したい、残せる演奏がしたいからだった。僕が感じたその音を伝えたいからだった。


「ピアノをミスもなく正確に弾く事は簡単にできる事や無い。譜面をきっちりと読めるという事は作者の意志をちゃんとくみ上げている証拠やからな。それに大きなコンクールで優勝する事も確かに大事な事や。これからのピアニストとしての人生に大きなアドヴァンテージを持つことになる。でもな、それだけのピアニストを俺は腐るほど知っとぉ」

と、オヤジはここまで一気に話すと安藤さんが置いたグラスを手に取って飲んだ。


「コンクールで優勝するという事は結果ではあるがそれが目的ではない。あくまでも通過点や。そう言う意味でこれまでの亮平のピアノを聞くと、まさにお利口さんなコンクールを勝ち抜くためのピアノや。ただそれだけや……ちゃうか?」


オヤジは僕に視線だけを向けて聞いてきた。


「うん」

と僕は頷いた。まさに図星だった。僕にとってはコンクールはRPGのラスボス攻略以外の何物でもなかった。

だからその程度の認識のコンクールに対して興味も関心もあまり湧かなかった。


「そんな弾き方をしていた亮平が、色々な音が分かる様になったんや。本当にピアノの持つ表現力の奥深さに目覚めたんやな。でも、それは今までの亮平のピアノをある意味、全否定する事でもある」


 僕がお嬢に会ってから聞こえだした見えだした音の粒。世の中にはこんなにも綺麗な音があるんだと理解した瞬間。そして僕のピアノはそれを再現する事が出来ると分かった瞬間。僕のピアノに対する想いは、その一瞬で変わった。


「今回な、『受験のためだけにとりあえず出ておこうか』程度のモチベーションが、何故か『冴子に負けるか』程度に出世してたわ。でもそんなもん冴子の本気に比べたらお前の屁みたいなもんや」


「ほっとけ。いちいち俺を引き合いに出すな」

と安藤さんは苦笑いしながらオヤジを窘(たしな)めた。


「俺自身もコンクールはそれほど興味は無かってんけど、コンクールに出るっていうのはホンマはエエ機会なんや。コンペジターの存在、観客、審査員、そして何よりもあの独特の空気や。亮平はそんな中に身を置いているっていう事を自覚できる唯一のチャンスなんや。それをこいつはのほほ~んとしとるからな。感性の欠片も感じられへんかったわ。まあ、エエ度胸しているというかなんというか……」

と最後は僕を軽く睨んで言葉を切った。


「そんな感性の欠片も何もなかった鈍感な亮平の目の前で、冴子が感性の塊のような俺の音を弾いたらどうなる?」

と、オヤジはさり気に自画自賛を入れながら改めて安藤さんに聞き返した。


「まあ、驚くわな。でもさりげない自画自賛はいらんぞ」

と見事に安藤さんに見破られていた。


「け! まあええわ……で?」


「焦るわなぁ……ついでに言うと、お前の目論見通りに追い込まれるわなぁ」


「追い込まれたら?」


「必死になるやろうなぁ」


「そうやろ? どや、おもろないか? 必死になった亮平のピアノやで?」


「いや、確かにそれは見てみたいと言うか聞いてみたいと思うなぁ……」

と安藤さんはオヤジに言いくるめられつつあった。簡単すぎる……。


「実際に聞いてどうやった」


「……確かに。お前の言う通りやったわ」

と安藤さんはいとも簡単に納得してしまった。


「そやろ? ほれ見ろ!」

と、オヤジは勝ち誇ったような顔をした。流石は元トップセールスだけある。


「亮平はな。去年から一気に色んなものを感じて色んな事を考えて、それが処理しきれんで頭の中が収拾がつかん状態になってもうてたんや。ホンマやったらもっと早くに経験しておかなあかん事や、もっとゆっくり時間をかけて自覚せなあかん事を一気に経験したからな」


「だから冴子の企みは俺にとっては渡りに船やった訳や」

そう言うとオヤジはまたロックグラスに口をつけた。


「語ると酒が美味いな」

とオヤジは満足げに呟いた。


「単に喉が渇いただけやろ。そんだけ喋れば喉も乾くわ」

と安藤さんは軽く流した。

でも今日はオヤジが珍しく語っている。こんなに語るオヤジを見たのは初めてだった。


 オヤジはグラスを持ったまま

「本当の意味で表現するとは自分の中の全てをさらけ出す事や、技術も表現力も感性も知識も全部全部それをさらけ出すための手段なんや。何のためか? 最高の音を……この場限りの出来得る最高の音の粒を出す為や。それが亮平には分かってなかったんや。手段が目的になっとったわ」

と、言ってからグラスをコースターの上に置いた。


 僕はオヤジの話を聞いて一言も返す言葉が無かった。オヤジには全て見透かされていたようだ。僕より僕の事をよく分かっている。


「理論と技術だけでは出せない音があるんや。亮平はそれには気づいとったけど、どうして良いのかが分かってなかった。それは自分の中で消化しきれていないというか、自分の中で自分の音として感じていないからなんや。どこか他人行儀なんやな。自分の中でイメージできてない音は絶対に再現でけへん。ピアノを単なる音の出る打楽器程度に思っていたら、お前の出したい音は永遠に出てこえへん。そんなもんを亮平は一生懸命、頭で理論で理解しようとしとぉ……亮平、父さんの言うている意味分かるよな?」


「うん」

僕は黙って頷いた。全くもってその通りだった。



「それで冴子にお前のピアノを叩きこんだんかぁ」

と安藤さんが感心したように呟いた。


「そうやねんけど……それなんやなぁ……問題は」

オヤジはそう言うと『ふぅ」と小さなため息をついた。


「問題?」

安藤さんが聞き返した。


 オヤジはフィディックをまた一口飲むと、ゆっくりとグラスを置いて

「でもな、亮平」

と安藤さんには応えずに、僕の名を呼んだ。


「『じゃあ教えるわ』ってそんなもんで、すぐ身に付くような簡単なもんではないのは分かるよな?」

と僕の目をじっと見つめて言った。


「うん」

と僕は小さく頷いた。やはりオヤジに見つめられると怯んでしまう。まだ跳ね返せない。


「だから俺もすぐには踏ん切りがつかなんで、冴子に『今までのスタイルを捨てる事になるし、もう戻れなくなるやろう。最悪の場合、いじり過ぎて演奏自体がおかしくなるかもしれん』って言うたんや。流石に俺もこんな事やった事無いしな。そうしたら『私はこのコンクールでピアノを辞めるつもりです。だから思い残すことは何もありません。好きにいじくっていいです』って言い切りよったわ。『辞めてどうすんの?』って聞いたら『ヴァイオリンに転向する』ってな。あの時の冴子の顔を見たら断り切れなくなって、こっちも本気で教えることにしたわ」


そう言うとまたグラスに手を伸ばした。

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