第232話 冴子のピアノ
場の空気が重くなりそうだった。いや事実一気に空気が重く凍り付いていた。
「父さん、聞いて良い?」
と僕は話題を変えようと聞いた。
「何をや?」
「あのさぁ、なんで冴子にピアノを教えたん? それもオヤジのピアノを?」
場の空気を変えたかったのは確かだが、どうしてもこの件に関してはオヤジに直接聞いておきたかった。
今がちょうどいい機会だ。
「それかぁ……」
オヤジはどう答えようか迷っているようだった。
何故かオヤジは鈴原さんを横目で見た。それに気が付いた鈴原さんは
「俺もそれを聞きたかったんや」
と言った。
兎に角、話題が変わって安藤さんはちょっとほっとしているようだった。案外、安藤さんはこの手の話が苦手なのかもしれない。
「お前もかぁ……」
オヤジは鈴原さんを横目で見ながら呟いた。
「お前が人様にピアノを教えるなんて事をした事が一度でもあったか?」
と鈴原さんは言った。
「そうやなぁ……ない事もないんやけどなぁ……」
と言いながらオヤジはため息をつくと観念したように語りだした。
「あれは正月明けやったかなぁ……冴ちゃんが『ピアノを教えてくれ』って言うて来たんや……」
と記憶の糸をたどる様にオヤジは天井を見上げた。
冴子はオヤジが昼寝をしようと、鈴原さんの自宅にある事務所でソファに寝転がっていたら唐突にやって来たらしい。
「ホンマにびっくりして『急にどうしたん?』って聞いたら……なんて答えたと思う? 亮平」
と僕に急に話を振ってきた。
「え? そんなん解る訳ないやん」
と僕は首を振った。
冴子が話を持ち掛けてきたというだけでも驚きなのに、そんな質問に答えられる訳がない。そこまで頭が回らない。
「え? 解らんかぁ? コンクールで冴子のピアノを聞いたやろ?」
意外そうな顔でオヤジが聞いてきた。
――そんなもん聞いても、解らんもんは解らん――
そこでそんな表情ができるオヤジの方が意外だと思いながら
「うん。あまりにもオヤジにそっくりなえげつないピアノやった」
と思いつくまま答えた。
「それやそれ。冴子は『おじさんのピアノを私に教えてください』って言うてきたんや。だから『なんで俺のピアノなん?』って聞き返したんや。もちろんこの時点では冴子にピアノを教えるつもりは全然なかったんやけどな」
と、オヤジは取りあえず僕の答えには満足したようだった。
「じゃあ、なんで教えたん?」
と僕は聞いた。
「そっかぁ……まだ解らんかぁ……」
オヤジはそういうとロックグラスを持ち上げて暫くそれを見つめてから口をつけた。
そっとグラスをコースターの上に置くと
「お前なぁ……コンクール直前まで迷っとったやろう? 出るか出まいかみたいな感じで」
「え、う・うん」
と急にオヤジに痛いところを突かれたので、僕は一瞬返事に詰まった。
「お前が腹を括ったんは、直前の二学期になってからやったしな」
「うん」
そうだった。レーシーに指摘されて僕は本気になったんだった。言われてそれを思い出した。
「冴子はそんなお前を年明けには見破っとったな。それでな『亮ちゃんはまだ本気になりきってない。まだ迷ってる。このままコンクールに出てもあのバカは何も気が付かんと思う』と言うて来たんや。ホンマにこの子は良く亮平の事を見ているなぁって感心したわ」
――なんでそんな事が分るんや?――
と僕は心の中で驚いていた。
「冴子がそんな事を言うたんか?」
と鈴原さんも驚いたように聞いた。
「ああ、言うてきたで。だから『じゃあ、あのバカをどうすればええんやろうか?』って逆に聞いてみたんやけど『私に全国大会で弾く曲を個人レッスンして欲しい。おじさんの音をそのまま私に教えて欲しい』って言うて来たわ。まだコンクールの予選も始まってないのに凄い自信やなぁとも思ったけど、それで分かったんや。冴子の本気が……」
そう言うとオヤジは少し考えてから話を続けた。
「この子が亮平の性格の弱いところを知っとぉって事はよく分かったわ。ちゃんとお前の一番痛いところを突いてきたわ。冴子は亮平がコンクールが始まってもまだ迷っているだろうと確信していたみたいや。この時は、まだ亮平も冴子がピアノを辞めるとは思っていなかったはずや」
僕は黙ってうなずいた。
「冴子が一番危惧していたのが……ないとは思うが亮平に手を抜かれたり、適当に弾かれたりする事やった。最後のコンクールをそんな事で終わらせたくなかったみたいやな。だからそんな亮平を本気にさせるのは、亮平の予想を超える演奏をするしかない。できれば亮平の出番の前にそれを見せつけなあかん。冴子の目的はコンクールで勝つだけでなく、完膚なきまでに亮平を叩きのめす事やった。
で、あまり勝ち負けには拘ってない亮平が敢えて一番負けたくない音っていうたら?」
「父さんの音しかない……」
と僕は呟いた。それぐらいは僕にでも解った。
「その通りや。あのコンクール会場での冴子の演奏を聞いてお前は頭が真っ白になったんやったよな」
「うん」
その通りだった。あの音を聞いて僕は何も考えられないぐらい打ちのめされていた事を思いだした。なんで冴子がオヤジの音を奏でる? ってパニックになっていた。
「それが冴子の狙いやったんや。と、同時に俺の狙いでもあった」
「え? 父さんの狙い?」
「そうや。冴子は俺の音をあの場所で弾く事で亮平の目を覚ましたかった。もしこれで本気にならなかったら、それまでの男だと思って自分が一位になるつもりやったんやろうなぁ。もっともそれはそれで戦術的にはなんの問題もないわな。勝手に亮平が自滅してくれるだけやからな。
で、よくよく考えてみれば冴子の頼みは俺にとっては渡りに船の話や。俺は理屈でピアノを弾こうとしている頭でっかちの亮平が歯がゆかったんで、この冴子の面白そうな企みを引き受ける事にしたんや。ま、結果は狙い通りになったけどな」
そう言ってオヤジは楽しそうに笑うと、オヤジはまたグラスに口をつけた。
「悪趣味や」
「え? そうかぁ? コンクール会場でパニックになって頭の中が真っ白になった奴を見るのは面白くないか?」
「それを俺に聞くか?」
このオヤジは一体何を考えて生きているのか分からなくなった。実の息子を追い込んでどうする?
まさかとは思ったが
「もしかして、それが冴子にピアノを教えた理由か?」
と聞くと
「ピンポーン!」
とオヤジが楽しそうに笑った。なんちゅう軽い返事や!
一瞬、殺意が湧いた。
そんな僕の憤りを意に介する素振りもなく
「ま、実際には、お前は予選でもそこそこは弾けていたけど、あれでは全国では勝てん。冴子の言う通りやとホンマに思ったわ」
と軽く流されてしまった。
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