第231話 憑依
僕が二人を見送ってから店の中に戻ってくると、BGMはBill Evansに変わっていた。
店の中の空気がさっきまでとは一変していて静かだった。
この店には珍しいJAZZだが案外これも悪くない。心の中でオヤジが今『 my foolish heart』を弾いてくれないかと密かに期待していた。
「父さん」
僕はオヤジと鈴原さんに挟まれるようにカウンターに座った。
「何や」
オヤジは振り向きもせずに応えた。
「さっきのピアノは拓哉のオトンのピアノやんなぁ」
と僕はオヤジに聞いた。
「うん? ……やっぱり判ってたんか?」
「うん。そりゃぁ、判るやろう。でも、なんで急に? 拓哉の為?」
「う~ん。それも無い事は無いけど、彼のお父さんの為かなぁ……」
と意外にもいつものオヤジらしくない弱い口調だった。
「もしかして拓哉のオトンが見えたとか?」
オヤジなら視えても不思議ではない。
「まあ、昔の弾いている姿はな。そりゃ見えるわな。それよりもなぁ……」
「それよりも?」
「ああ、あの息子を残して逝ってもうた父親の気持ちがなぁ……判るからなぁ……つい、余計な事をしてしまったなぁ……」
と言って頭を掻いた。
オヤジの声に力が無かったのは、自分のやらかした事を珍しく後悔していたからだった。
「お前も息子となかなか会えなんだからなぁ」
と鈴原さんが慰めるようにオヤジに声をかけた。鈴原さんはその当時のオヤジをずっと見てきて良く知っている。
「まあな。そんな感じかな」
とオヤジはひとことだけ言った。
「でも、やっぱり何かが視えていたんや」
と確かめるようにオヤジに聞いた。鈴原さんもいつものオヤジらしくないと感じたようだった。
「ああ」
と、力なく答えたオヤジの表情は硬かった。
「なんとなくそんな気がしていたんやけど、お前にしては珍しい事をするなぁっと思とったら……そう言う事かぁ」
と鈴原さんは納得したように頷いた。
「まぁな」
と短く応えるとオヤジはロックグラスを煽った。
空いたグラスを安藤さんの目の前に置いた。
「お代わりでええんか?」
と安藤さんは聞いた。
「ああ」
「父さん。でも拓哉は滅茶苦茶喜んでたで」
と僕はそのグラスを見つめながら言った。あまりにもいつものオヤジの様子とは違うのが僕も気にかかる。
「そうか?」
オヤジは横目で僕をチラッと見たが表情は、まだ強張ったままだった。
「うん。あいつホンマに父親の事好きやったみたいやから。それにあの曲を一緒に演奏できなかったのを後悔していたから嬉しかったと思うねんけど……」
「まあ、それだけ見ればな。でもな、安易にこんな事したらアカンねんけどなぁ……色んな意味で……」
僕は安易に拓哉のオヤジのピアノを人前で弾いた事を後悔しているだけかと思っていたが、もしかしてそれ以外にも理由があったのか?
「お前のいう事は分からんでもないけど、あれはあれで良かったんとちゃうかと思うぞ」
と鈴原さんがフォローするように言った。
「そうか?」
「ああ、同じ父親としては納得できるんとちゃうか? ホンマは自分が弾きたかったとは思うけど、それはもうでけへんねんからな」
「かなぁ?」
とオヤジにしては本当に弱気なセリフだった。
「ま、なんにせよ。お前には珍しいノリやったな」
と言いながら安藤さんはオヤジの前にグラスを置いた。
「ホンマになぁ。ノリノリで弾いとったな。あんなノリのええ弾き方すんのは初めて見たわ。あれは彼の父親の真似か?」
と鈴原さんも安藤さんと同じようなことを思っていたようだ。
「そうやねん……ホンマにな。あの子の父親が乗り移ったのかと思ったわ」
「え? うそ?!」
安藤さんと鈴原さんと僕が同時に驚いて声を上げた。
「ホンマ」
オヤジは消え入りそうな声で言った。
「最初は、自分でも『彼のお父さんのために弾いてもええかぁ』ぐらいは思っていたんやけど、あの子の父親のピアノをなぞっている内に頭がぼぉっとしてきて、ところどころ記憶が飛んでんねん。俺なぁ……あの子の父親の演奏スタイルまでは真似たつもりはないねんけどな……」
僕は少し背筋に冷たいものが走った。
「それホンマ?」
と鈴原さんが聞いた。声が少し上ずっていた。
「ホンマや」
確かにあの楽しそうな表情はオヤジでは表情ではないなという違和感があった。オヤジの言う通りあの時は拓哉のお父さんに乗り移られていたのかもしれない。どうやらオヤジ自身もこういう経験は初めてだったようだ。
鈴原さんと安藤さんは顔を見合わせていたが、明らかに表情はこわばっていた。
「一平、それは冗談やんなぁ」
と安藤さんが気味悪そうに聞いた。
「俺はこんな話は冗談では言わんぞ」
「ホンマに憑依されてたんかぁ?」
「多分なぁ……俺も初めての経験やから、よう分からんわ」
オヤジはため息を軽くつくと、グラスを見つめて
「それにな……実は最後に『As time goes by』なんか弾いた記憶ないねん……あの子にな、言われて初めて『ああ、そう言えはそんな曲を弾いたような気がする』って気が付いたんやけど……」
と、オヤジはそう言うと諦めたように軽く引きつった笑いを浮かべた。
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