第230話 セッション
安藤さんのハーモニカのイントロが終わるとオヤジがピアノを弾きながら口ずさみだした。
そう、歌うというよりはピアノに合わせてハミングでもしているような軽い歌声だった。この前とは明らかに違う。だからと言って歌詞を適当にごまかしながら歌っている訳ではない。オヤジはちゃんと歌詞は歌っていた。
安藤さんがギターで入ってきた。ストロークでコードを弾いている。たまに入るアドリブコードがオシャレだ。
気が付くと鈴原さんも口ずさみだしていた。安藤さんもバックコーラスの様に歌い出した。
そうだった。この曲はオヤジの世代に流行った歌だった。この三人が知らない訳がない。
オヤジは気持ちよさそうに歌詞を口ずさみながらピアノを弾いている。
安藤さんも鈴原さんも楽しそうに歌っていた。
拓哉は驚いたような表情でベースギターを弾いていたが、弦を弾く指は慣れた動きだった。
いつものコントラバスと違ってエレキベースを弾く拓哉の姿は僕には新鮮だった。
哲也もカウンターで鈴原さんに続くように一緒に歌い出した。本当は彼もチェロで参加したかったんだろう。
オヤジは笑顔で拓哉を見た。
ピアノを弾きながら楽譜も見てはいるがあまり関係ないみたいだ。好きなようにアドリブを入れながら軽く弾いている。
オヤジってこんな弾き方をしていたっけ? いや、まったく違う。このピアノはいつものオヤジの音ではない。本当にジャズピアニストが弾くようにアドリブを入れながら、曲に身体を預けるように弾いている。
こんな弾き方をするオヤジを見たのは初めてだった。過去の残像の中でも見た事が無い。
今日のオヤジの弾くピアノは、一気に店の空気も雰囲気も変えてしまったが、とてもそれが自然で心地よい音だった。
こんな弾き方もできたのかと僕は驚きながらオヤジ達を見ていた。
拓哉はそのオヤジを見つめながらベースを弾いている。さっきまでの戸惑ったような表情はもうない。
オヤジは目を細めながら拓哉を見ている。
なんだかいつものオヤジの表情とも違う。でも本当に楽しそうにオヤジはピアノを弾いている。
そして今日のオヤジはいつものように姿勢の良い弾き方ではなく、軽く背中を丸めてリズムに合わせて肩を揺らしていた。
拓哉も楽しそうに弾いている。
唐突に始まったこのセッションだが、やっと慣れてきたようだ。
それにしても今日のオヤジのピアノは新鮮だ。
それでも音の粒はこの店の中を楽し気に飛び回っている。
こうやって拓哉も父親とピアノが弾きたかったんだろうなぁ……と思いながら僕は演奏を見ていた。
多分彼の父親と僕のオヤジとではそれほど歳も違わないだろう。
オヤジの表情がとても柔らかい笑顔になっている。こんな表情も今まで見た事が無い。
本当にオヤジは拓哉と一緒に弾くのが楽しいみたいだと思って僕は二人を見ていた。
と、その時に僕はある想いが浮かんだ。
――オヤジはもしかして拓哉の父親のピアノを弾いているのではないか?――
あのオヤジならそれぐらいの事は出来るだろう。なんせお嬢が認める一番の『視える人』なのだから。
この曲は拓哉の父親が好きでよく弾いていた曲だ。それだけ分かればオヤジには充分だろう。
そうだとしても
――オヤジにしては珍しい事をするな――
と僕は思っていた。
最後はオッサン三人と高校生三人の合唱でこの曲は終わった。
余韻を楽しむかのようにオヤジはそのままピアノを弾いていた。
そのフレーズは古い曲だが、僕でも聞いた事がある曲だった。
オヤジはピアノを弾きながら最後に
「As time goes by……」
と口ずさむと静かに鍵盤から指を離した。
あの昔の映画『カサブランカ』でも流れた名曲だ。
ふと拓哉に目をやると表情が固まっていた。どうしたんだろうか? この曲に何か曰くでもあるのだろうか?
鍵盤を黙って見ていたオヤジは立ちあがると
「あ~面白かったぁ」
とひとこと言ってカウンターに戻って安藤さんにビールを注文した。
拓哉が我に返ったように
「ありがとうございました。本当に父と一緒に弾いているような感じでした」
と言った。
オヤジは
「そう? それは良かった」
と笑った。
「本当に亮平のお父さんの演奏は僕の父の演奏と全く同じでした」
と拓哉は高揚した様な顔つきで言った。
「え? そうなんや?」
と僕は拓哉に聞いた。
「うん。うちのオトンが弾いているのとホンマに一緒の音やった。何度も聞いているから覚えてんねん。それにな、お前のお父さんの弾く時の恰好な……めっちゃオトンに似てた。JAZZって弾き方似るもんなん?」
と拓哉は言った。
勿論、拓哉はこのオヤジの特技? を知る訳がない。
「へぇ」
と僕は応えたが、間違いなくオヤジは拓哉の父親の音をここで再現していたと確信した。なにも弾く姿まで再現しなくてもいいだろう? とは思ったが……。
「それに……最後に弾いたフレーズは『As time goes by』ですよね」
とオヤジに確認するように聞いた。
「え? あ、そうやな……そうそう。良く知っているね」
とオヤジは少し焦ったような受け応えをしていた。
「はい。その曲はオヤジが僕が小さい時に子守唄代わりに良く弾いてくれていたので……」
「そ、そうなんだぁ……」
と言ってオヤジはビールを煽った。オヤジが言葉が丁寧な時は間違いなく焦っている時だ。
グラスをカウンターに置いたオヤジと一瞬目が合ったが、直ぐに逸らされた。僕は確信した。やはり間違いないと。
でもオヤジは今さっきの演奏に関してはもう何も言わなかった。
「まあ、それは偶然なんとちゃうかな?」
と僕がその場を取り繕うように応えた。
オヤジも唐突に訳の分からん事をする。
「それにしても亮平のお父さんってピアノ上手いですよね」
と哲也が感心するように言った。
「そう? ありがとう。昔、ちょっとね、習っていたんだけやねんけどね」
とオヤジは応えていた。ちゃんとピアニストを目指していたと言えばいいのに……と思ったが、言わないのもオヤジらしいなとも思っていた。
「そうなんですかぁ……だから亮平もピアノが上手いんやなぁ」
と拓哉は僕の顔を見て言った。
「拓哉君やったけ? 君のベースも大したもんや。流石やな」
と、オヤジは拓哉の演奏を褒めた。
それから話題は音楽談議になり、当たり前のようにオヤジ達の高校時代の昔話に移った。二回り以上も離れた先輩後輩の関係だが、それはあまり関係ないようだった。先輩後輩の関係はどこまで行っても同じようなもんなんだろう。
しばらくしてから哲也と拓哉は名残惜し惜しそうに帰って行った。
「また一緒にセッションさせてください」
と拓哉は言いながら店を出て行った。
「今度は僕もチェロ持ってきます」
と哲也もやる気満々だった。
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