第229話 それは唐突に始まった

「俺も一平の言うとおりやと思うな。で、篠崎君やったけ? 君は大学どうすんのや?」

と安藤さんは拓哉に聞いた。


「僕は一応、国公立文系で考えてます」

拓哉は硬い表情で答えた。


「それやったら三年の夏まで部活で頑張れるかぁ?」


「……一応夏の大会までは居ますけど、正直言って部活の事だけを考えるのは無理です。最低でも三年になったら受験勉強中心になると思います。浪人はできませんし……」

と少し考えてから拓哉は答えた。


 安藤さんはそれを聞くと頷いて

「それはその部長も吹部の他の部員も同じやろうな」

と言った。


「多分、似たようなもんだと思います。何人かは本気で全国を目指したいっていう奴もいるとは思いますが、たぶんそれは少数派だと思います」


「だろうなぁ……今年の器楽部ぐらいなもんやろう? 進学校らしくないのは」

と安藤さんは笑いながら言った。


 まさに安藤さんの言う通りだった。

彩音さんと千龍さんの音大志望は周知の事実だったし、冴子、瑞穂、忍の三人も音大志望だったはず。もちろん哲也もそうだ。

うちみたいな進学校でこんなことは通常は有り得ない。


ほとんどが普通の大学に進学する吹部とは、そもそも考え方からして違う。

勿論それは部の雰囲気にも影響する。


「そっかぁ……なんかそれを聞いたら力が抜けました。正直言うとちょっと気にしてましたから……」

と拓哉は安藤さんとオヤジに言った。


「でも器楽部は楽しいです。ここにいる時だけは受験の事が完全に頭から消えてます」


「う~ん。それはそれでダメなような気がするなぁ」

と安藤さんが笑いながら言った。


「そっかぁ」

と拓哉も笑った。



「でも本当に亮平と哲也と一緒に演奏していると楽しいんです。父親と演奏しているような気になれるんで……」

と拓哉は言った。


「ほほぉ、お父さんと一緒に演奏したことがあるんや」

とオヤジが聞いた。


「いえ、それはありませんでした。する前に亡くなったもんで」


「あ、そうか。余計なことを聞いたな。しかし、残念やったなぁ。お父さんも楽しみにしていたやろうに……」


「多分そうやったと思います……僕は一緒にやりたかったです」

と拓哉は答えた。


「ふむ……ところでお父さんの演奏は聞いた事はあるんかな?」


「はい。今でも覚えています」


「そっかぁ……」

そう言うとオヤジは遠くを見るように目を細めて暫く拓哉を見ていた。


「なるほどねえ……」

とひとこと言うとチェイサー代わりのビールを一気に飲み干した。



「お前さぁ。ちょっとそれ貸してみ」

と突然オヤジが僕が拓哉から受け取った楽譜を取り上げて譜面に目を通した。


「え? あ、うん」

僕は突然オヤジが楽譜を読みだしたので驚いた。


「お前らこんなん弾いてたんやなぁ」

と懐かしそうに目を細めながら楽譜を丁寧に読んでいた。


「うん。これは拓哉のお父さんが拓哉と一緒に弾きたいって言っていた曲らしいんやけど」


「そうやろうと思ったわ」

とオヤジは笑った。


「アンちゃん、ベースギターあったよな」


「ああ、あるで。ピアノの横に置いてあるやろ。アンプもそこに入ってるわ」

と言った。

オヤジは立ちあがって引き戸を開けるとエレキベースとアンプを取り出して繋ぎだした。

そのベースギターを見た拓哉が

「それってリッケンバッカーですよね」

とオヤジに聞いた。


「そうや。よう知ってんなぁ」

とオヤジは感心したように答えた。


「はい。ポール・マッカートニーも使ってましたよね。僕も何度が弾いた事あります」


「へえ。そうなんや」

とオヤジはまた感心したように答えた。


「結構癖のあるベースギターですよねぇ」

どうやら拓哉は同じ種類のベースギターを弾いた事があるようだ。


「まあね。ええ音出るけどな」

そう言うとオヤジは弦をはじいた。

重い音が店の中に響いた。その音一つでライブハウスのような空気が漂いだした。


 オヤジはフロアの椅子に座って軽くチューニングをすると

「こんなもんやな」

と、言って拓哉を手招きすると

「じゃあ、これね」

と、ベースギターを手渡した。


「あ、は、はい」

急にベースギターを渡された拓哉は慌てていた。何が起きているのか全く理解できていないようだった。で何か楽しそうな事が起きそうな予感はして、僕はワクワクしながら見ていた。


「アンちゃん、ハーモニカはあったけ?」


「あるけど」


「あ、僕も持ってます」

と拓哉は慌ててカバンからハーモニカを取り出そうとした。


「へえ? そうなんや。持ってんのやぁ」

と驚いたように言うと

「いや、でも今日はベースだけで良いよ。アンちゃん、いけるよな」

と安藤さんにふった。


「ええでぇ。俺が吹くわ」

と言って安藤さんは拓哉が持っているハーモニカと同じメーカーのハーモニカを取り出した。


 オヤジは頷くとピアノを鳴らした。ジャジーな音の粒が店の中を舞った。まさに『PIANO MAN』の始まりだった。僕の音とは違う弾きなれた大人の香がする音だ。


 その時になって僕はやっと気が付いた。今日のオヤジはもう完全に酔っぱらっているという事を。

オヤジは基本的に酒が強いので酔っているのかどうか判り難い。どちらかと言うと酔ってもあまり変わらない。


そしてピアノはほとんどが酔っ払った時にしか弾かない。

今日は早くから鈴原さんと飲んでいたようだ。

兎に角、久しぶりのオヤジのライブだ。僕はどんな音が出てくるのかちょっと楽しみになって来ていた。

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