第402話千恵蔵の想い
ただ単に伴奏だけをすればよいと簡単に考えていたが、千恵子のフルートの音色があまりにも抒情的で感情が満ち溢れていたので思わず聞き入ってしまった。
――ああ、これは千恵蔵の想いだな――
知恵蔵は今この夏の大会の真っただ中にいるようだ。
さっき三人で聞き惚れていた音色から感じた千恵子の感情を、更に強烈に僕は感じた。
千恵子は軽く言っていたが、本当は彼女も全国に行きたかった。全国で北野坂高校の音を奏でるつもりだった。
吹奏楽部の部員を押しのけて選ばれたコンクールメンバー。器楽部なのに……『吹奏楽部には行かない』と言っておきながら吹奏楽部で全国を目指している矛盾。
器楽部員たちの気持ちを考えると辛い……
この大会中に彼女が感じた全ての感情が、このフルートの音色から色とりどりにあふれ出してきている。
その音色に僕のピアノの音色が支えている。いや、伝わってくる千恵子の想いや感情をただ単に受け止めているだけだ。ただ何とかしてその思いを一緒に感じていたい、共有していたいという思いに僕も駆られていた。
彼女の音色はいつもの物静かな彼女の雰囲気とは違って、抒情的でありまた情熱的でもある。
さっき三人で聞き惚れていた寂しげな音色とは違って、彼女の想いが一音一音に込められて伝わってくる。
繊細なフルートの音色がこれほどの熱量をもって僕の心を揺さぶってくる。
とても不思議なそして至福の時間を共有している。
しかしその歓喜の時間は儚く短い。
僕は淡い名残惜しさを感じながら指を鍵盤から上げた。
僕は視線を千恵蔵に向けた。
彼女は吹き終えたままの姿で動かなかった。
ゆっくりと唇がフルートから離れる。千恵蔵は息を吸い込みながら天井を見上げるとそのまま軽く息を吐いた。
そして僕の方に振り向くと
「ありがと」
と満面の笑みで言われた。
千恵蔵のこんな笑顔は初めて見た。これだけでご飯は三杯食えそうだ。
「いいえ。どういたしまして」
と僕は軽く応えた。その言葉以外どう応えて良いのか分からなかった。
でも、僕のピアノ伴奏の代償がこの満面の笑みであるなら僕は大満足だった。
「う~ん」
と千恵蔵は背伸びをするように腕を軽く広げて背筋を伸ばした。
「なんかすっきりしたみたいね」
と僕が聞くと
「すっきりかぁ……そうかも」
と笑顔のまま答えた。僕は彼女の中で何かのけじめがついたような気がしていた。
なんとなくそれだけは確信みたいなものが僕にはあった。
「ところで藤崎君のピアノの音、変わった?」
と千恵蔵は突然聞いてきた。
「え?」
そんな事を聞かれるとは全く思っていなかったので、僕はどう応えて良いか分からずにフリーズした。
「とっても吹きやすかったわ。でもそれはある程度予想していたから期待通りだったんやけど。ただ初めて二人で音合わせするのに、昔から私の音を知っているかのようにちゃんと合わせてくれるのは驚いたけど……」
「けど?」
今の話と僕の音が変わったと感じる事と、どう結びつくのか僕には理解できていなかった。
「うん。うん。そうだ」
と千恵蔵は僕の返事とは関係なく自分を納得させるように頷くと言葉を続けた。
「音が変わったというか、音の一つ一つが本当に優しいの。元々藤崎君のピアノは一音一音を正確に出し切ろうとしているのがよく分かる音なの。そう、しいて言えば『自分の音を大事にしている』って感じかな。私はそんな風に思っていたの。でも、今日は私の音も呼吸もちゃんと聞いてくれている感じがしたの。それを感じる事が出来るのがとても嬉しかった。ホンマにね、今日は藤崎君の音に優しさというか安らぎを感じたの。フルートって吹奏楽器でしょ? ヴァイオリンやチェロと違って息継ぎやブレスもあるんだけど、藤崎君のピアノはそれも含めて『合わせてくれている』っていう実感ができたの。だからそう感じたのかな?」
と最後は僕に答えを求めてきた。
「知らん」
と僕は笑いながら応えた。僕にそんな事分かるわけないだろう。僕はただ今ここで一番いい音を出していただけだ。ただフルートの音色を聞きながら知恵蔵の気持ちに触れて、それに感化されたのかもしれないとは思う。
「そうだよね。ところで今までフルートとかと二重奏とかした事あるの?」
と知恵蔵は改めて聞き直してきた。
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