第401話オンブラ・マイ・フ


「時間? 全然急いでないから大丈夫やけど? どないしたん?」


「ちょっとこれ見てくれる?」

と千恵子はディバックから楽譜を取り出した。

僕はその楽譜を受け取って目を通した。


「ヘンデルのラルゴかぁ……」

それはヘンデルが作曲したオペラ『セルセ』の第一楽章の冒頭に歌われる*アリアだった。


「うん。知っとぉ?」

と千恵子は聞いてきた。


「ああ、『オンブラ・マイ・フ』やろ? もしかしてこれさっき吹いてなかった?」


「うん。吹いてた。聞こえとった?」

さっき教室の窓から悲し気に流れてきたあのフルートの音色は、このイタリアの古典歌曲だった。


「うん。聞こえとった。ええ曲やんなぁ……これ。俺たち三人で聞き惚れとったわ」

と僕は笑いながら言った。


「それはどうもありがとう……私この曲大好きなん……」

と千恵子も笑いながら応えた。


「さっきエエ音出しとったもんなぁ……わっかるわぁ……」

僕はそう応えながら楽譜を目で追った。

フルートとピアノ伴奏の二重奏にアレンジされた楽譜だった。


「もしかしてこのフルートの伴奏をしろ……と」


「うん。だめ?」

千恵子は頷いて上目遣いに僕を見た。僕はこういう視線に弱いかも。一瞬、彩音さんに伴奏を頼まれた時の事を思い出した。


「うんにゃ。全然OKやで。この曲弾いたことあるし……」

と、迷うことなく即断していた。

この曲は哲也に頼まれてチェロの合奏で何度も弾いたことがあった。


「え? そうなん。ありがとう。前から藤崎君と一緒にこの曲演奏ってみたかってん」

と千恵子は嬉しそうに笑った。


「ホンマかいな」


「うん。ホンマ」


――そういえば千恵蔵と二人で演奏った事なかったな――


「そっかぁ……」

『一緒に演奏したかった』と言われるのは、楽器を演奏する者としてそれはとても嬉しいひとことだ。

勿論断る理由など全くない。


 僕はもう一度譜面に視線を落とした。

ピアノ伴奏自体は何ら問題はなかったが、千恵蔵のゆったりと流れるフルートの音色にちゃんと寄り添えるように弾けるかが問題だ。

ある意味慣れたヴァイオリンや弦楽器と違ってフルートの伴奏はちょっと緊張もするし楽しみでもあった。


 取り合えず楽譜を一読し終えてから譜面台に楽譜を置いた。まだ頭にこの曲は残っているし、どういう風に弾こうかある程度の目星みたいなものはつけることができた。


 僕は軽く深呼吸をしてから鍵盤に指を落とした。千恵子に目をやると『いつでもOK』と頷いた。


 さっき校庭から聞こえた千恵子のフルートの音色を思い出しながら僕は指を沈めた。

この曲はピアノの伴奏から始まる。


 音楽室に僕のピアノの音色が流れる。

午後のゆったりとした時の流れに身を任せるかのように、僕は少し厚みと余韻が残るように弾き始めた。


 千恵子のフルートの音を導くように僕は、そっと鍵盤に指を沈めてフルートの音を待った。

木陰に吹く風のように優しいピアニシモの音色で始まった千恵子のフルート。その音色はロングトーンで始まった。その曲名と同じくゆったりとした息の長いロングトーン。千恵子のフルートの音色は零れ出た吐息のように静かなピアニシモで始まった。


――なんて綺麗な音の波なんだ――


 千恵子のフルートの音色はすぅっと水色の地平線のように広がっていく。音楽室がとても広く感じるような響きだ。

 この曲はプラタナスの木陰への想いを歌ったものだが、千恵蔵のフルートの音色は詩の通りに僕を心地よく誘ってくれる。


広く茂ったプラタナスのからの木漏れ日。優しく頬を撫でる春の仄かな風。


そんな風景が目に浮かぶ。


 さっき教室の窓から入って来た音色とはまた違った趣があった。

今僕はこの音色を独り占めにしている。それが勿体なくて仕方なかった。

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