第367話 コンサートその2

 スポットライトがまぶしい。

僕たち二人は強烈なライトの中、ホール全体に響き渡る強烈な拍手を受けながら指揮台を目指し歩いた。

楽団員の弓が揺れている。今日のこの演奏に対する観客の大きな期待を感じる拍手だった。


――この拍手の目当てはダニーの指揮なんだろうなぁ――


と何故か冷静に捉えている僕がいる。


 目の前にあるのは、指揮台の前に鎮座するグランドピアノ。僕の目指す場所。


 考えてみればこれはいつもの部活の演奏会でも見慣れた風景のはずなのだが感じる空気が違う。これがプロのオーケストラの持つ雰囲気か? これが世界の巨匠と一緒に演奏(や)るという事か?

特に客席からひたひたと押し寄せる空気に、今まで感じた事のない威圧感みたいなものを感じた。


 コンサートマスターの手島さんと目が合った。彼は笑顔で僕を迎え入れてくれた。

そして緊張を解きほぐすかのように両肩を上下に揺らした。


――リラックス。リラックス――


 僕自身では気負いも緊張もないと思っていたのだが、いつの間にか僕の表情が硬くなっていたようだ。手島さんに心配されたかもしれない。

でもこの笑顔に僕は救われた気分になれた。


――ああ、これがオヤジの言っていた心地よい緊張感か――


それを僕は肌で感じていた。


 客席に向かいダニーと一緒に挨拶をすると、僕はピアノ椅子に座った。

ダニーは静かに指揮台へと上がった。


ダニーが振り返り僕の表情を確かめるように笑顔を見せた。


――ああ、今からここで演奏するんだな――


と当たり前の事を実感した。

そんな事は分かっていたはずなのに、今初めて命の奥深いところで理解したことを僕は認識した。

 そう、そんな事を今更感じている自分自身にも驚いてた。


――頭では分かっていたつもりだったんだけどなぁ――


 今僕は初めて身体全体で腹の底から『ここで巨匠とプロのオーケストラと一緒にピアノを弾く』という事を実感した。腹の底に落ちるというか……腑に落ちるというか……これは悟りを開いたと言っていい位の実感値だった。

しかしそれを感じるにはまだ早すぎるという事を、僕はこの後すぐに知る事になる。


 それはさておき、いつものダニーの笑顔を見て僕は余計な力が抜けた。僕はここに来るまで何度緊張して何度余計な力を抜いただろうか? 


 僕は頷くと一度大きな深呼吸をして息を整えた。

そして視線を鍵盤に落とした。


もう僕に緊張感はない。いつでも大丈夫だ。


 僕は最初の鐘の音が僕に下りてくるのを待った。

一度鍵盤の上に指を軽く触れさせてみた。ピアノは既に僕の演奏を待ってくれている。


 咳払いの後に訪れる静寂。すべての音が消えた。

その刹那、僕は鐘の音を求めて鍵盤に指を沈め至聖三者大聖堂の大鐘を鳴らした。


――ああ、この音が欲しかったんだなぁ――

 まずは自分が出したかった音色を出し切れて安心した。

このピアノは僕を受け入れてくれたようだ。


 夕暮れに遠くから厳かに聞こえる大鐘の*ブラガヴェストの音色。神聖にして市民の祈りと共に神への畏怖も感じられる音。その鐘の音が遠くでこだまする。


 大鐘の単独で響くFの音は哀しみを表す**ペレボールの音でもある。7度のブラガヴェストはキリストの受難を現わす***ペレズヴォンをも彷彿させる。


 このような鐘の音は当時のロシアの国民にとって切り離せないものであった。もちろんラフマニノフも自ら語るほどロシア正教会の鐘の音の影響は受けていた。





*大鐘(ブラガヴェストニク)でゆったりと打ち鳴らされる鐘の音。当時ロシアでは大きさの違う多くの鐘を鳴らすことが慣例となっていた。その最初の音を鳴らした大鐘の音の事。

**葬儀の際に慣らされた鐘の鳴らし方。

***キリストの受難の二日間のための鐘の奏法。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る