第368話コンサートその3

 僕のピアノはその鐘の音をここで鳴らし切らねばならない。

音の粒はこの広いホールをゆっくりと波紋のように広がっていく。その音の粒が天井に舞い上がり降りてくる。そう鐘の音が降りそそぐ様に客席に溶けていく。


――いい感じだ――


 僕の五感が感じた鐘の音を今僕はこのホールに響かせている。 

僕が鍵盤に指を落とすたびに、新しい音の粒の波が生まれる。それは明るい紫色の波と変わって降りそそぐ。

視線を動かさなくても、ところどころ色の濃淡の違いが見てとれる。感じる。


 僕の鳴らす鐘の音が最高潮に達した時、その鐘の音に導かれた弦楽の音の粒が『ロシアの母なる河』と呼ばれるボルガ川のながれのように滔々とホールを満たしていく。

まるで大地から湧き上がるがごとく音の粒が重くゆっくりと広がっていく。


 そして僕のピアノから生まれる鐘の音は、その弦楽の調べの波に溶けていく。


 オーケストラの音の粒は色とりどりにきらめきながらホールに徐々に舞い上がっていく。


ゲネプロ*の時とは違う本気の音だ。本番になってオーケストラの音色が変わった。繊細な音の粒が鮮やかな色をもって生み出されていく。まるで音の大波のようにうねっている。


――これがプロの演奏か……――


 さっき体感した『プロとの共演への覚悟』という意識は、ここであっという間に塗り替えられた。

いや、それは上書きされたというべきか。

気持ちの上での覚悟はできたが、身体で感じる覚悟とはまた違っていた。

今まさに僕は左手で鐘を鳴らし続けながら全身でプロの音の波を受けている。


 オーケストラの演奏者は本番に合わせて最高の音を当たり前のように持ってくる。


――客席に観客がいるという事はそういう事か――


 全ての楽団員がこの日この時この一瞬のために全ての技術と感性を凝縮させて演奏している。

今自分が出せる最高の音を奏でている。それを聞きに来る観客がいる。

この緊張感を僕は人生で初めて味わったような気がした。

音の粒・波、ホールの空気感、部活での演奏やコンクールで感じたものとは全てが違う。


オーケストラの音の壁が厚く僕のピアノの音色にのしかかってくる。


――なんてえげつない音の波なんだ――


 今僕はプロオケの洗礼を受けている。本気のプロは当たり前のように身体の隅々まで染み渡るような音の波を奏でる。


――これがプロの凄さなのか――


 間違いなくこれはプロの演奏者たちの技術と才能に裏付けされたエゴだ。この音はプロのプライドとエゴの音だ。油断すると置いて行かれそうになる。


―― 一周回ったホンマもんのエゴイストが奏でる自信に満ちた音の粒だ――


 思わずそう感じてしまうほどにこのエゴイストたちが生み出す怒涛のような音の波が、出だしから僕に襲い掛かってくる。身震いしそうなぐらい感動的である。


――なんと素晴らしい空気の中で僕はピアノを弾いているんだ――


 思わず僕は音楽の神に感謝したくなった。今目の前に音楽の神ミューズがいたら間違いなく抱きしめただろう。



*ゲネプロ 本番前のリハーサル。本番と同じように演奏する。

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