第193話 地区予選
二学期の始業式から二週間ほど後、僕は大阪のコンクール会場にいた。
梅田に出るのは久しぶりだ。
この前参加したコンクールの時以来のような気がする。僕はプライベートではあまり大阪まで遠征はしない。大抵の用件は家の近所で済んでしまう。
元々人混みはどうも好きになれない性格だった。大阪は神戸に比べて人が多い。これで東京の大学なんかに行ったら大丈夫なんだろうか? と我が事ながらちょっと心配になった。
今日から二日間がコンクールの予選だ。
会場には朝早く着いたが、冴子は居なかった。どうやら彼女が演奏するのは明日のようだ。
このコンテストは参加人数が多いので地方予選は一日では終わらない。
――本選で会えるだろう――
僕は冴子がここで終わるとは全く思ってもいなかった。当たり前のように全国大会まで行くものと思っていた。
勿論、僕自身も地方大会で終わるつもりはなかった。
コンサートホールは三百人ぐらいが入る程度のホールだったが、天井が高い。二階席もある。それに客席が近い。コンクールというより何かのオーデション会場に来たような気がした。
しかしこのホールは音の抜けは良いみたいで、こういったコンクールによく使われているようだった。
ピアノが置いてあるステージには、そこに一番近いホールへの入り口から観客席の間を通っていく事になる。
舞台そでがあるようなホールではない。本当にこじんまりとしたホールだ。
それにしても久しぶりのコンクールだった。心地よい緊張感を感じる。
ステージに上がると眩しくてそして照明で暑い。
――ああ、そうやった。こんな感じやった……俺はここに帰ってきたんや――
と僕はコンクールの空気を思い出した。
どんなにこじんまりしたホールでも壇上に上がると感じる威圧感は同じだ。空気が重い。
いや、観客との距離が近いだけ更に威圧感を感じる。でもそれはピアノを弾くまでだ……弾き始めたら関係なくなる。
ステージに上がるとすぐに目の間にピアノ。
ホールのドアが開くまでは「どういう演奏をしようか」なんて考えていたが、いざステージに上がるとそんな事は忘れて「挨拶はどこでするんだっけ?」とか「こんなに近いのに案外観客席は意外と見えないもんだな」とか全くピアノとは関係ない事を考えていた。
――ここは基本に忠実にラスボスをやっつける。どうせ冴子もいないんだし……必殺技は取っておくか――
そんな事を考えながら僕は軽く両手の指を広げると鍵盤にゆっくりと指を置いた。
そうやって僕はこのピアノの聲(こえ)を聞こうとした。
しかしそれよりも僕の前に弾いたピアニストの余韻が伝わってくるようだ。緊張感がまだこのピアノに残っている。僕はそれを払拭するように心の中で、まだ余韻が残るピアノに語り掛けた。
――大丈夫、落ち着け……――
それは自分に対しての言葉だったかもしれない。
指の先からピアノの鼓動が伝わってくるようだ。
――どんな音を出してやろうか?――
ピアノは静かな空気を取り戻したようだ。余計な余韻が消えた。
――うん、行ける。このピアノはまだ本当に音を出し切っていない――
このピアノと僕の相性は悪くない。ピアノは僕を演奏者として認めてくれたように静かに待ってくれている。良い感じだ。ちゃんとピアノの期待に応えなくてはならない。僕は軽く自分に気合を入れ直した。
一度指を軽く鍵盤から浮かすと僕はゆっくりとバッハとの語らいの時間に入った。
ホールにバッハの音色が響く。本当に音の粒がはっきりと聞こえるいいホールだ。
天井が高い割には抜けがよくて音の粒の輪郭がぼやけていない。
そう言えば伊能先生が「この曲を弾く時は厳かな気分になる」って言っていたな。
僕はこのホールにどれほどの厳粛な空気を漂わせることができるか試したくなった。このピアノもそれを望んでいるようだ。その企みが上手く行けば行くほど次のショパンとの対比が際立って面白いかな。などと思いながら僕は思ったほど緊張もせずに楽しみながら平均律の一番を弾き終えた。もう『基本に忠実』なんて言葉は既に僕の頭からは消えていた。
ほんの一瞬の間を開けて僕はショパンのエチュードの10-4に突入した。
ホールの空気が一瞬で変わるのが分かった。疾走する空気感が心地よい。さっきまでの荘厳な空気が一瞬で吹き飛ぶ快感。今日はいつもより指が動く。いや、多分一緒なんだろうがノリが違う。
音楽室や家のピアノを弾いている時とは違う興奮がある。
一気に華やかな疾走感が漂う音の粒が弾けまくっていた。
――このホールなら音の粒が潰れる事は無いな――
飛び散る音の粒を僕は楽しみながら見る余裕もあった。
目の前に楽譜があったらそこに書き込まれた余計な落書きを見て笑っていたかもしれない。
それほど僕は余裕を感じながらこのピアノと疾走した。
僕はなんの躊躇もなくエチュードを弾き切る事が出来た。実に気分が良い。
ラスボスは無事に退治できたような気がするが、本当に攻略できたかどうかは明日の発表まで分からない。
でも、弾き終わった瞬間の今はそんな事はどうでも良かった。兎に角、冒険者『俺』はラスボスを倒した後のファンファーレを聞いた。
ここで弾くべき音を僕は弾き切った。このピアノの音を僕は出し切れたと思う。その満足感で一杯だった。
――うん。大丈夫だ――
僕はそう確信して立ち上がると客席にお辞儀をしてホールから出て行った。
ホールの扉が閉まる直前に思い出したように拍手の音が聞こえた。
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