第192話 亮平の決意

 そしてグラスをカウンターに置いてからオヤジの目を見て

「ところで、父さん……俺、今度のコンクールに出る事にしたわ」

と告げた。


「ほぉ。やっと腹を括ったんか?」

オヤジは少しだけ驚いたような顔をして僕を見た。やっぱりオヤジにも僕がやる気がないように見えていたようだ。


「うん。冴子がヴァイオリンに転向するって言い出したんやけど、今回がピアノでは最後のコンクールやって……父さんは知っとったん?」


「うん……ああ、知っとったで」

オヤジの言葉に一瞬のためらいを感じたが、それは気のせいだろうか?


「冴子も真剣に考えた末に出した結論やろう……なんや、亮平……お前は反対なんか?」


「いや、そういう訳やないけど……」


「けど?」


「なんか……ひとことぐらい相談があってもええのとちやうかなぐらいは思うやん」

そうだ。今回の美乃梨といい冴子といい、僕の周りにいる奴らは何の断りもなく決める。最初から相談ぐらいしろと言いたかった。そんな義理も道理も彼女たちには無いのは分かっているのだが……。


「ふ~ん。そうかぁ……まぁ、そうなんやろうなぁ……」


 オヤジはそう答えると天井を見上げた。僕にはそれが何か考え事をしているように見えたが、直ぐに視線を戻し、そのまま安藤さんに空いたビアグラスを軽く持ち上げて見せた。

スコッチにはまだ早い様だ。


 安藤さんは頷くと黙って新しいグラスにビールをついでオヤジの前に静かに置いた。


 オヤジはビアグラスを右手で持ち上げると

「ただ、冴子も色々と考えていたんやろう。こういう事は誰かに相談して決めるって話でもないしな」

と言ってビールを飲んだ。


「うん」


「それよりも……そうやな……目一杯、冴子にお前の音を聞かせてやればええんとちゃうか?」

と言ってオヤジはコースターの上にビアグラスを静かに置いた。


 レーシーの言った通りだった。オヤジの目の前で腑抜けた演奏をしなくて良かった。少しレーシーに感謝した。


「当たり前や、最後ぐらいは完膚なきまでに叩きのめしたらな気が済まん」

僕はそのグラスを見つめたままそう言った。


「ほほぉ。亮平君いうねぇ……」

とオヤジは僕の言葉に驚いたような表情を見せた。僕の言葉が意外だったようだ。実は僕自身も少し驚いていた。勢いって怖いな……誰が喋っているんだ? と我ながら思ったが、まぎれもなく僕が吐いたセリフだった。

そしてこの時は本気で冴子を叩きのめすような音で引導を渡してやろうと思っていた。


――これが私の音や!――


 冴子が哲也の耳元で吐いたこのセリフが僕は忘れられない。

このセリフをそっくりそのまま冴子に返してやりたい。今僕はそんな気持ちになっていた。


 オヤジは僕の横顔をじっと見ていたが、

「ふ~ん。少しは本気に弾く気になったみたいやな」

と人の心を見透かしたように上から目線で意味ありげに口元をゆがめた。

何だかレーシーとの会話をオヤジに聞かれていたような気分になった。


「これは聞きに行かなあかんなぁ……」

安藤さんが呟くように言った。


「なんや? お前も興味が湧いたんか?」

意外な感じでオヤジが安藤さんに聞いた。


「まぁな。それに冴子の最後のピアノかもしれんからな」

と安藤さんは煙草の煙を吐き出しながらそう言った。


「そうやな。今回の冴子のピアノは楽しみやな……ホンマに本選には行かなあかんなぁ」

オヤジはどうやら地区本選には来てくれるようだ。


「予選は行かへんのか?」

安藤さんが聞き返した。美乃梨も同意見らしく何度も頷いていた。


「予選は玉石混交やからな。そんなんに行ったら、お前は寝てまうな、間違いなく」


「そっかぁ……そうかもしれんな。でもそれは亮平が本選に行くという前提で話をしてるよな?」

安藤さんは呆れたような顔でオヤジに言った。


「当たり前や。そこで終わる事は無いやろう……流石に……」


「そうやな」

と安藤さんは言いながら顔には『親バカですな』とありありと書いてあった。息子の僕にも分かるぐらいに露骨に書いてあった。


「まぁ、地区本選なら見に行っても面白いしな」

そんな事はお構いなしにオヤジは普通に受け応えしていた。全く自覚がない様だ。


 このオヤジの反応は明らかに期待外れだったらしい。

「そう言うもんか……」

安藤さんはつまらなそうにそういうと煙草を吸って勢いよく天井に向けて煙を吐き出した。

そして美乃梨と二人で苦笑いしていた。どうやら美乃梨も同意見らしい。


何も気づかないオヤジは

「で、お前はさっきまでピアノ弾いとったんか?」

と聞いてきた。


「うん。晩飯食う前に少し……」


「予選はなにを弾くんや?」


「平均律の三番とショパンのエチュード10-4」


「バッハ? 3声のフーガ 嬰ハ長調か?」


「うん。そう」


「ほほぉ。またメジャーな組み合わせやな」


「うん」


「なんやったらここで弾いてみよか?」

僕はそう言ってから立ち上がりかけたが

「いや、弾かんでもええ。楽しみは当日まで取っておくわ」

オヤジは笑って僕を制した。


 僕は少し不満だった。今なら結構気合の入ったエチュードを披露できると思ったのだが……。

それにこれは予選で弾く曲だ。本選しか来るつもりのないオヤジは、聞きたくても聞けないだろう? と思ったが、言う気力も失せたので黙った。


 結局、この日は普通に美乃梨の歓迎会のような飲み会で終わった。

僕はコーラを飲み過ぎた。ピザにはコーラが合い過ぎる。

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