第40話 爺さんの記憶

 僕の疑問に答えるように、爺ちゃんが記憶を辿る様に話始めた。

「それは一平が十八になる前やった。ワシは用事があって田舎に帰ったんじゃが、そん時にお嬢に会った。いつものように家の事とかを聞いて終わりかと思ったらお嬢が急に

『一平は元気か?』

と聞いてきよったんや。

『ああ、元気や』

と儂が答えると

『そろそろ一平はこっちに来るぞ』

と言われてなぁ。


『こっちってなんや? 田舎に来るってか?』

と答えたらお嬢は首を振って

『こっちの世界や。正確に言うと、そろそろこっちの世界に帰って来るという事じゃ』

と答えよった。

 それは『一平がもうすぐ死ぬ』っていう事だと儂も気が付いた。

その時お嬢は

『そうじゃ』

といつのもように表情も変えずに儂に言いよった」


 爺ちゃんはここで自分の気持ちを落ち着かせるように、グラスを手に取ってビールを煽った。

「ふぅ」と一息つくとまた話を続けた。


 オヤジは黙って聞いていた。


「儂はな、お嬢にまた聞いたんや。

『なんでや?』と。全く納得できなんだからな。

 するとお嬢は

『あやつはそう言う約束でこの世に生を受けたのじゃ。あやつは自分のやりたい事、やるべき事ををやって、それが終わったらこっちの帰ってくるという約束でこの世に生を受けたんじゃ』

お嬢はいつものように無表情だった。


『やりたい事って? やるべき事ってなんじゃ?』

儂は聞いた。


『あやつは元々神に愛された子じゃ。あやつのやりたい事は一つ。ピアノじゃ。あやつは神の聴く音を奏でられるピアノ弾きじゃ。もう少しでその境地に達する』


『神の音を奏でる?』

儂には言っている意味が理解できなんだ。


『そうではない。神の聴く音をこの世で奏でられるという事じゃ。それほどあやつの命はこちらの世界に近い』


『そうなったのは一平がお嬢に会ったからか?』


『そもそも、あやつ自身の約束じゃ。ワシに会ってそれが少し早くなっただけじゃ』


『一平が今いなくなったら守人は絶えんぞ。お嬢はそれでもええんか?』


 ワシは一平を持って行かれたくなかったから必死やった。

お嬢は黙って考えていた。

これはお嬢にとっても由々しき問題やからな。


『もしここで一平がピアノを辞めたらどうなる。あいつのやりたい事はまだ終わらんぞ』


『そんな簡単なもんではない。人は生まれ出るには意味が有る。意味もなく生まれてくる者は誰ひとりおらんのじゃ。ピアノを辞めてもただ約束の時間が延びるだけじゃ』


『延びたらその間は生きていられるんだな』


『ああ、そうだ』


『それで良い、しばらくは約束は反故にしてもらおう』


『そうか……そうなると今、慌ててこっちに帰る事もない。しかしあやつはこの世で自分を持て余すことになるじゃろう……そもそも、あいつのやれる事は今の世にはない。あいつは生まれてくる業は既にないのにのぉ。不憫な事じゃ』


 本当にお嬢が哀しそうな顔で言うもんだからワシは驚いた。

それでも兎に角、一平がこの世で人生を見失っても生きていてほしいと思った。生きてさえいれば……と。それにお嬢のその様子から、ワシはピアノを辞めさせたら一平は結構生き延びるような気がしていた。

 お嬢の口からは一平に辞めろとは言えないようじゃった。言ってはならぬのか? そもそもそれは言えないことなのかは判らなかったがのぉ。


『だったら儂が辞めさす。どんな手を使っても辞めさす』

それで儂は急いで神戸に帰って来て、お前のオヤジにピアノを辞めさしたという訳じゃ」


 爺ちゃんはそう言うとまたビールを一気に飲んだ。

飲み終わって一言

「お嬢はこれを願兼於業(がんげんおごう)の法理と呼んでおったな」

と呟いた。


 僕はオヤジの顔を見た。

それに気が付いてオヤジが僕に言った。

「お前の爺さんからそれを聞いた時は『なに戯けた事言うているんや』って思ったわ。それから結構揉めたわ」


「もしかして、それが家を出た理由?」

僕はオヤジに聞いた。声が少しうわずっていたかもしれない。


「そうや。よう分かったな。そんな与太話『はい、そうですか』って聞ける訳ないやろ?」

オヤジは笑いながらそう言った。

その笑いはもうオヤジの中には何のわだかまりもないという証しのような気がした。

まあ、今聞いている僕も少し与太話だと思っている。


「今でもそれが正しかったのかどうか考える事がある」

爺さんが口を開いた。爺さんは間違いなく信じているようだ。


「ただこうやって孫のお前と3人でここに座っていると、それはそれで良かったのだろうとも思える」


「でも、延びたという事はいずれは……?」

僕は喉の奥に引っかかっていた疑問を口に出した。


「ああ、まあ、でも寿命がない人間はおらんからな。いづれはそういう時が来るやろ。だからここまで生き延びたら、充分だわ。それにお嬢もまだ何も言って来んからな。しばらくは大丈夫なんかとちゃうか?」

と他人事のようにオヤジは言いながら、グラスを一気に空けて安藤さんの前に差し出した。


 僕は安藤さんの顔を見た。

安藤さんはオヤジからグラスを受け取ると新しいグラスに氷を入れながらつぶやくように言った。

「お嬢の話は高校の時から一平に散々聞かされて、『なんて迷信深い奴等だ』と思っていたんやけどな。でも一平の家にはそのお嬢が居るんだろうなぁって今は思えるようになってきたけど……それが一平がピアノを辞めた理由かぁ……ホンマに迷信深いな」

安藤さんやそう言うと笑ってオヤジを見た。安藤さんもこの話を聞くのは初めてだったようだ。


「まあ、こんな話を信じろという方に無理があるわ。俺でもお嬢を見てなきゃ信じてへん……いや、最初聞いた時は信じたくも無かったわ。判っていたけどオヤジに当たって家を出た」


「それで鈴原の家に厄介になったんやったな」

と安藤さんがオヤジの言葉を継いで言った。

この頃の事は安藤さんも当事者で見ていたからよく知っている。




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