第39話 爺さん

 安藤さんが

「お久しぶりですね。おやっさん」

と笑いながら挨拶をした。

オヤジは横目でチラッとその客を見ただけで何のリアクションもしなかった。


 入ってきたのは70前後のオジサンだった。その年代にしては背が高い。オヤジとそんなに変わらない身長だろうか? 老人という雰囲気はあまり感じさせなかった。安藤さんの対応を見るとこの人は常連客なんだろう。


 その人は僕の隣に立って椅子に腰を下ろすでもなく、僕をしばらく見下ろしていた。

僕がそれに気が付いて座ったままその人を見上げると、その人は視線を一度オヤジに向けてから

「……亮平か?」

と聞いた。


――なぜ僕の名前を?――


 と僕が驚いて見上げたまま硬直しているとオヤジが

「その人な、お前の爺さんだからな。ちゃんと挨拶しとけよ」

とカウンターの奥に並べられているボトル棚を見たまま僕に言った。


「え?……ええ??」


――今、目の前にいるのは俺の爺さん? 祖父? ジジイ? え?!!――



 まさかここでこのタイミングで出逢うとは思っても居なかった。

取りあえず僕は立ち上がろうとしたが、それよりも早く爺さんはそのまま僕の横に座った。


 取りあえず小声で

「亮平です」

と言って頭を下げた。


 安藤さんがニコニコ笑いながら

「親子3代揃い踏みですなぁ」

と楽しそうだ。

安藤さんの目の前にオヤジと爺ちゃんに挟まれた僕がいる。それは安藤さんにとって、とても愉快な構図なんだろう。


 そんな情景におかまいなく爺さんは低い声で

「ビール」

と注文した。


安藤さんは楽しそうにグラスにビールを注ぎ爺さんの前に置いた。


 爺ちゃんはそれを黙って飲むとふぅと息を吐いた。そしてカウンターの横のピアノに目をやると

「なんや一平、ピアノを弾いていたんか?」

と聞いた。

思ったより重い渋い声だ。


「俺とちゃう。弾いていたんは亮平や」

オヤジはちらっと横目で爺さんを見て言った。


「亮平? ほぉ。お前もピアノを弾くんかぁ?」

爺ちゃんは驚いたような表情で僕を見た。


「あ、うん」

僕は慌てて頷いた。

爺ちゃんは

「そうかぁ。血は争えんな……」

と呟くと

「お前の父さんはピアノを途中で諦めたからな」

とぽつりと言った。


「諦めた? 何でピアノを諦めたん?」

 僕は何の抵抗もなく自然に聞いていた。あれだけ聞きたくても聞きづらくて聞けなかった一言が爺ちゃんの話に乗ってすっと出てきた。


「正確には辞めたんではなく、ワシが辞めさしたんや」

爺さんは表情も変えずにそうひとことだけ言った。


「え?」

僕は驚いて爺ちゃんとオヤジの顔を見比べた。


「あれはおとんのせいやない。あれはしゃあない事や」

 低い声でオヤジは言った。できればこの話には触れられたくないという空気が漂っていた。

しかし敢えてオヤジはこの話を止めさそうともしなかった。


「亮平は幾つになった?」

さっき僕を見下ろした時とは違う優しい感じの声で爺ちゃんは聞いてきた。

「十六」

と僕はひとこと答えた。


「ふ~ん、そうかぁ。じゃあ、夏に一平と帰った時には、お嬢には会うたんやな」

と爺ちゃんは聞いてきた。


「うん。会うた。ジジイとオヤジが来ないと怒ってた」

とその時、お嬢が言った言葉をそのまま伝えた。


「そうかぁ。お嬢は怒っとたかぁ……一平、今度いつ行くんや?」

爺ちゃんは軽く笑いながらオヤジに聞いた。


「まだ決めてへん」

オヤジは右肘をカウンターについて、こめかみに軽く人差し指を当てながら爺さんの方を見た。


「行く時は教えろ。今度はワシも一緒に行く」


「ああ、その方がええ。本家のオヤジも会いたがっとったしな。『儂もいつまでも生きてない』とか言うとったで」

二人の会話を間で聞きながら僕は、オヤジはこんな表情で爺さんと話をするのかと新たな発見をした気分になっていた。


「ありゃ、まだまだ長生きしよるわ」

そう言うと爺さんはまた同じように笑ってビールを一気に飲んだ。


「憲矢、ビールお代わりや」

と言って開いたグラスを軽く持ち上げて振った。


「はい」

 安藤さんはいつもと感じが違う。言葉遣いが丁寧だ。緊張しているかもしれない。でもなんだか楽しそうだ。


 爺ちゃんはオヤジの顔を顎で指して言った。

「こいつも十六の時にお嬢に会ったんや。いや、ワシが会わせたんやけどな。夏休み中、ほとんど毎日一平はお嬢と一緒におった。ワシもワシの父親もそれほどお嬢とは一緒におらんかったが、一平だけは不思議とお嬢と息が合ったようでお嬢も一平が呼ぶとすぐに出てきよったわ」


「すぐ出てきたって……お嬢は出てこない時もあるの?」

と僕は爺ちゃんに聞き返した。


「ああ、気分が乗らんと出て来ん事がある……というかたまにしか出て来ん」


「え?そうなのいつでも会えるのかと思っていた」

夏のオヤジとの対応を見て、いつでも会えるものだと思っていたがそうではなかったようだ。


「それは一平だけや」


「いや、亮平も多分いつでも会える」

オヤジが口を挟んだ。


「なに? ホンマか?」

爺ちゃんは驚いたように僕の顔を覗き込むように見た。


「ああ、たぶん間違いないと思うわ。お嬢も亮平には色々話をしていたみたいや」

僕の頭越しにオヤジが爺ちゃんに言った。


「そうかぁ……だったら亮平も……」

爺ちゃんは驚いたようにオヤジに顔を向けた。


「それはないな。あれは俺だけや」


「そうかぁ……それならええねんけどな」

爺ちゃんの声が少し不安げに聞こえた。


「なに? なんの話?」

僕は二人の会話が全く理解できなかった。

またもや爺ちゃんとオヤジを交互に見ながら聞き返した。


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