第38話 頂上からの景色

「そうやなぁ。ひとことでいうのは難しいんやけど……いろどりの世界に一人浮かんでいるような自分。それに気が付いた瞬間に弾いていたピアノの音は消える……というか、いや、どうでも良くなるというか意識しなくなるというか……そんな感じの中でも、色の粒が自分がちゃんと音を奏でていることを教えてくれる……そんな感じかなぁ」

とオヤジは古い記憶を引きずり出すように話してくれた。


 オヤジの言葉を聞きながら、『僕がさっき感じたあの音のない世界はオヤジが感じた世界だったのか? それともオヤジと僕はその世界を共有できたのか?』と僕は考えたが答えが出せなかった。

あれはほんの一瞬の錯覚かもしれないという思いも僕の頭の片隅にあった。


 でも確かにオヤジの言った音のない色の洪水の情景は理解できた。

それだけは錯覚とは思えなかった。


「ま、お前にはお前だけの世界があるやろうから、無理して俺の世界を真似せんでもええ」


「うん。分かっとぉ。でも今さっきはオヤジの世界が見えたような気がする」


「そうか。お前にも見えたんか」

オヤジはそう言うと微かに笑った。そして言葉を続けた。


「後はお前だけの景色を見るこっちゃな。それは至福の時間やからな」


「至福の時間?」


「ああ、そうや。この瞬間だけは味わったもんしか分からんわ」


「そうかぁ。それは味わいたいなぁ」

僕はそう呟いた。オヤジが味わったその至福の時を僕も体験したいと思った。

さっきはその至福の入り口に僕は辿りつきかけたかもしれない……そんな思いが頭をよぎった。


「ふん、だったら頂上を目指せ。富士山の頂上からの景色は登った奴でないと分からんからな。これは説明して判るもんやない。登った奴だけが味わえる景色や」


「そうかぁ……僕も目指したらもっと見えるかな?」

その景色を僕も見てみたいと思った。


「ほほぉ、やっぱり見たいんか?」


「うん、見たい」

僕はそう返事したが、僕がそんな気持ちになっている事自体に驚いていた。でも、今の僕はそれが本心だった。


「だったら見に行ったらええ」


「うん」


「でもな……散歩のついでに富士山に登った奴はおらんぞ。その山が高ければ高いほど険しくなる。要するに登ると決めた奴しか高い山には登れん。そして登れん奴には永遠にその景色は見る事は出来ん」

 僕が余りにも軽い受け応えをしていたからなのか、オヤジには珍しく厳しい目だった。そして口調も厳しかった。


 しかしすぐに笑って

「まあ、お前が決める事やからな。俺は何も言わん。見たい景色があるというのはええこっちゃ」

と言ってビールを飲んだ。

顔は笑っていたが言葉の最後だけ寂しそうに感じたのは気のせいだろうか?


――俺は最後の最後の景色だけは見ていないからな――


そんな声が聞こえたような気がした。


 安藤さんはそんなオヤジを見て少し笑っていた。

結局、僕はオヤジがピアノを諦めた理由を聞けなかった。


 オヤジは安藤さんに空っぽになったビアグラスを差し出して、

「フィディックのロック」

と注文した。


 安藤さんは黙って頷くとグラスに丸い大きな氷を入れて、ボトルから直接グラスに注ぎ入れた。

僕は三角柱のボトルがオシャレだなと思いながらその様子を見ていた。


 安藤さんはスコッチで満たされたグラスをオヤジの前にあったコースターの上にそっと置いた。



そして

「ホンマにお前の音にそっくりやったな」

安藤さんはまた同じセリフをオヤジに言った。

「ああ、今日はな」

オヤジはそう言いながらグラスに口を付けた。


「今日は?……今日だけの音かあれは?」


「ああ、亮平もお嬢に会ったからな」

オヤジは呟くように言った。


「お嬢?……ああ、お前の実家に住む座敷童か?」

安藤さんは少し驚いたような表情でオヤジと僕の顔を交互に見比べた。


「ああ、実家というか本家な。この前、夏に帰った時に亮平も会うた。お陰でこいつも色んなもんが見えるようになったみたいや。だから今日のは、俺の音を真似しても不思議ではない」


「はぁ。亮平も会ったんや。やっぱりおるんやなぁ……」

安藤さんは感心したような呆れかえったようなため息をついて言った。


「お前と爺さんだけしか見えんからな。でも亮平まで見えたとなるとやっぱりおるんやなぁ」

と言って僕の顔を見た。


 安藤さんはお嬢の存在を話には聞いていた様だが、話半分程度で信じていなかったようだ。


「だからおるって何回も言うとるやんか」

 オヤジも少しムキになっていた。その姿が面白かった。

まあ、こんな話を信じろというのも無理がある。現実にお嬢に会った僕でさえ『あれは夢か錯覚だったか?』と思う時が今でもある。


「ああ、そうやったな。今日の亮平の演奏がお前に似とったのはそのおかげという訳なんや」

安藤さんは笑いながらそう言った。


「多分な。こいつは俺の残像を見ていたようやからな」


「そうなんや」

安藤さんはそう言ってまた僕を見た。今度は黙って僕は頷いた。


「で、一平にも同じようにその残像が見えていたんか?」

安藤さんは更にオヤジに聞いた。


「いや、見えてはいなかったけど多分そうだろうなと思ったんや。この月光の音は俺も覚えとう。もう二度とこの音を出す事も聞く事も無いと思っていたけどな。まさかここでそれを息子に聞かされるとはな」

と言ってオヤジは口元をゆがめて苦笑いした。


「俺って弾くたびにこんな情景が見えるようになるん?」

僕は少し不安になったオヤジに聞いた。


「いや。それはないとちゃうか……このピアノやからな。家のピアノや学校のピアノでなにか見えたか?」


「いや、見えなかったし何も感じなかった」

と僕は首を横に振った。


「そんなもんや。それが普通や。ま、今日見えたのはおまけみたいなもんやな」

オヤジはそう言うとグラスのスコッチを勢いよく飲んだ。


「まあ、お前が真剣に上を目指すなら。これからお前だけの情景をみる事になるやろうなぁ」

とひとりごとのように言った。


「そうかぁ……それは少し見てみたいかも」


「まあ、慌てんと考えや」

オヤジがそう言った時にカウベルの音がして、お客さんが一人入ってきた。


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