第37話 神々の吐息

  今の僕はピアノの望む通りに弾いているだけだった。


――今まで僕が弾いていた『月光』は何だったんだろう――


 同じ楽譜を弾いたはずなのに僕のピアノとは違う、一音一音に深みのある音が絶え間なく連なって一つの情景と物語を綴っていた。


――オヤジのピアノはこんなにも楽譜を読み切って弾いていたのか――


僕は背筋が寒くなるぐらいの凄みを感じた。人はこんな音を奏でることができるのかと。

それでいて音の連なりは重々しさもなく、どちらかといえば軽いタッチで流れている。

 

 まるで静かな湖面に映る月の影のように……そして音が消えて静かな情景だけが目の前に浮かんだ。ただ人影も見えない寂しさが漂う音色だった。そのままその時のオヤジの心情が現れたのだろう。あるいは自分の人生が薄っぺらい物に感じたのであろうか?


 僕は初めてピアノを弾いている最中に全ての音が消えて情景の中で佇んでいるような感覚に捕らわれた。


それは不思議な感覚と空間だった。


 その不思議な感覚を確かめるまもなく、僕は第一楽章を弾き切ると軽いタッチで第二楽章に入った。


 そこは埋められない空洞を無理やり埋めようとしている……いや、忘れようとしているオヤジの心の中だった。


 旋律が単調になりそうなのを何とか取り繕って無理やり笑っている……そんな感じが漂う音だ。

音の粒が哀しく拡散している。

 指の先に全神経を集中させて軽く弾ききる。こんな芸当は僕にはできない。それをオヤジはいとも簡単にやってのけていた。全ての指が計算され尽くしたオートメーションのように正確に音を刻んでいく。

肩の力を抜いて正確なタッチで軽く弾ききってしまわないと第二楽章は台無しになる。


オヤジの心は冷えているのに、音は全く違う世界を映し出していた。


結局僕は目を閉じたままピアノに導かれるように第三楽章に指を進めた。


 最終楽章で見えたのは僕の知らないオヤジだった。今のオヤジからは想像が出来ないオヤジの姿だった。

それも一瞬だったような気がする。

全てを吹っ切った……いや、吹っ切るしかなかったオヤジの心が一気に駆けて行った。


 僕はオヤジと同じ時間を共有した。

これは不思議で奇妙でとてつもなく興奮する時間だった。

力強くそれでいて繊細に全ての音の粒が鍵盤から飛び出していった。

この第三楽章の音の洪水をこれほどひと粒ひと粒丁寧に明確にそして伸びのある音を奏でた事は無かった。

これがオヤジの第三楽章なんだ。

まさに音の粒に埋もれてしまいそうな感覚だった。


 オヤジの心は全てを吹っ切りながらも自問自答している心だった。

走馬灯のように自分の人生を振り返り、そして自分の心に自分自身でけじめをつけた。

オヤジは強い精神力で全てを押さえ込んだようだ。


――これはオヤジの心の叫びだ!――


そう気づいた時に僕は第三楽章を弾ききっていた。

両手が頭の上にあった。



 額から汗が滴(したた)り落ちた。初めての経験だった。

人生で初めてピアノと会話しながら弾いたような気がしたが、過去のオヤジと会話していたのかもしれない……いや、僕ではなくオヤジの思い出が今弾いていた。この月光はオヤジが最後に弾いた時の音そのものだ。


 しかしその感覚は決して不愉快ではなくむしろ新鮮な感覚だった。

その余韻を指先で暫く感じてから僕は静かに鍵盤から手を離して瞼をゆっくりと上げた。

僕の時間に戻ってきた。


振り返るとオヤジは目を閉じたままだった。


安藤さんが

「一平のピアノと一緒やないか?」

と呟くようにオヤジに聞いた。


 オヤジは黙っていた。

そしてゆっくりと目を開くと

「ふん!」

と鼻を鳴らした。


「父さんは月光がお気に入りやったんか?」

呼吸を整えてからオヤジに聞いた。


「なんでそう思うんや」


「このピアノが教えてくれた」


「そうか。案外口の軽いピアノやな」

オヤジの口元が軽く緩んだ。


「父さんもピアノを弾いていたんやってね」


「母さんに聞いたんか?」


「うん。口を滑らしよった」


「あいつの口は昔から滑らかやったからな」

オヤジは笑いながらテーブル席を立ってカウンター席に戻った。

それを見て僕も自分の席に戻った。


「僕のピアノはどうやった?」


「まあ、何とも言えん。これはお前の音やないな。弾いていてお前はどうやった?」


「弾いていて気持ち良かった。なんかピアノと会話してたような気がする。でも父さんの言う通り自分で弾いたような気がせえへん。過去の父さんの音に引きずられてしもたような気がする」


「やっぱりそうか」

 オヤジは僕が過去のオヤジの意識に触れながらピアノを弾いていたのを、気が付いていたようだ。


「うん。自分で弾いた気がせえへんねんけど、こんな感覚になれるんやったらピアノをもっと弾いてもええかなぁって思うわ。こんな弾き方があったんやってちょっと感動したしぞっとした」


 オヤジのピアノは真似のできない音だった。たまたま今回はそれをなぞるように弾けただけだし、背筋が凍るほどの凄みを感じたが、僕はオヤジの感情をそのまま音符に乗せるような音に触れて感動していた。何よりも音の粒はとても綺麗だった。

こんな音を出してみたいと思った。


 オヤジのピアノは音と音の隙間が絶妙だった。これ以上ないというタイミングで次の音が繰り出される。

だからそれが粒のように綺麗に弾ける。並ぶ。そして拡がる。


 オヤジは僕の返事を聞くと少し考えていたが、おもむろに口を開いて言った。


「まあ、今はそれでエエんとちゃうか? どんな弾き方をしてもそれはお前の音や」


「うん。またあんな音が出せるんやったら僕も出してみたい」

 僕は今思っていた事をそのまま口にした。

ピアノなんて楽譜通り弾けばそれでいいと思っていたが、そうではなかった。良い音とは技術的な巧さのみを僕は考えていたがオヤジの音は全くそうではなかった。あの音の深みは技術云々だけでは言い表せない音だった。


「ふん。少しは感じるところがあったようやな」

オヤジは軽く笑いながらビールを飲んだ。


「うん。こんな気持ちになったんは初めてや。明日、音楽の先生のところに話しに行ってくるわ」


「そうやな」

 オヤジがもっと何かを言ってくれるかと思っていたので僕は少し不満だった。

しかし、だからと言って適当に言っている訳ではないという事は分かった。

 オヤジ自身、どう言って良いのか決めあぐねている……そんな雰囲気だった。ピアニストを目指していたオヤジ。その時はどんな景色を見ていたんだろう? 僕が見えた音の粒はオヤジも見ていたんだろうか? それを僕はそれが知りたいと思った。


「ただ……」


「ただ……なに?」

僕はオヤジに聴き直した。オヤジは何か気になるところがあったのか?


「いや、今はこれで良い……また改めて聞かせてもらうわ。今度はお前の音をな」

 オヤジはそれだけ言って、黙ってグラスを見ていた。何か考えているようだったがこの沈黙に僕は耐えられなかった。


「父さんはピアニストを目指していたんやろ? そん時はどんな感覚やったん? どんな世界を見ていたん?」

僕は思い切って聞いてみた。


「弾いている時か?」


「うん」


「鍵盤というパレットから音の粒が溢れ出てくる感覚かな」


「鍵盤から?」

やはりオヤジも同じ感覚の中にいたようだ。


「自分で作った色もあれば、元々そこにあった色もある。全ての音に意味と色が有る。自分の音に反応して色がまた生まれてくる……それが分かる。そしてその粒が繋がっていく、溶け合っていく、弾けあって行く……何とも言えん音の間合い……俺はそれを神々の吐息の様だと思っていた」


「音に色と意味かぁ……」

僕もそれはなんとなく分かったような気がした。


「ああ、神の色や。この世界は色がついた音に満ち溢れているという事がよくわかった。この世界が自分の音の色で塗りつぶされていく様を見ながら弾くピアノは最高に気持ちがええ」

オヤジの表情が一気に明るくなった。

それは夢を語る少年のようなあどけなさが垣間見えるような表情だった。


――やっぱりオヤジは今でもピアノが弾きたいんだな――


と僕は感じていた。


「それで神々の吐息かぁ……今さっき少し見えたような気がする」

オヤジが感じたものを僕も感じられたかもしれない。

その事に僕は素直に喜びを感じた。


「見えたか?」


「うん。吐息とまではいかなかったけど、少しだけど……そんな気がする」


「そして色の世界が現れると音が消える……」

とオヤジはひとこと付け加えるように言った。


「音が消える?」

僕は敢えてオヤジに聞き返した。

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