第36話 オヤジのピアノ

  安藤さんは黙ってオヤジの前に生ビールが注がれた冷えたグラスを置いた。

オヤジはそれを無造作に持ち上げると、美味そうに勢いよく飲んでいた。


「かぁ。美味い。やっぱり仕事の後のビールは美味いなぁ」

と本当に幸せそうな顔をしていた。


 僕はどのタイミングでオヤジにピアノの話を切り出そうか悩んでいた。

安藤さんはオヤジの前にローストビーフとフランスパンを黙って置いた。

オヤジはパンを手に取るとその上にローストビーフを乗せて食べ始めた。


「今日は友達は来えへんのか」

オヤジは食いながら聞いてきた。


「友達ってシゲルの事?」


「ああ」


「別に約束はしてへん」


「そうか」

オヤジはそう言うと、黙って食事を続けた。


 僕は沈黙に耐えきれなくなって

「父さん、今日な、学校の音楽の先生にピアノを弾けって言われた」

と思い切って話を切り出した。


 オヤジは口をもぐもぐさとせながら僕の顔を見た。

無言で目で「ピアノ?」と聞き返すように眉間に軽く皺を寄せて首を傾げた。


 僕は放課後の音楽室での話をした。

そして

「もっと上を目指せって言われた」

とオヤジに言った。


 オヤジはビールを飲んで全てを胃袋に流し込んで、一息「ふぅ」と吐いてから僕にひとこと聞いた。

「それってピアニストになれって事かぁ?」


「多分」


「お前はどうしたいんや」


「分からん……ピアノは嫌いやないから今でもたまに弾いているけど、ピアニストなんて考えた事が無かった」


「まあ、お前のピアノは下手ではない」

オヤジは僕の方を見ずにカウンターの奥のボトル棚を見ながら見ながら言った。


「僕のピアノを聞いた事あるん?」


「ああ、去年のコンクールは見に行った」


「やっぱり来てくれていたんや」

僕はその一言で気分的には満足だった。嬉しかった。でもそれを顔には出さなかった。


「僕の演奏どうやった?」


「ああ、聞いていて心地よかった。余計な力も入っていなかった。見事に楽譜通り弾いてたな。けど父さんの好きな音やったな」

オヤジは記憶を辿る様に天井を見上げてから言った。

そして

「今のレベルはどんな感じや?」

と聞いてきた。


「先生に言われた日に帰ってからなんとなく悲愴を弾いたけど、文字通り悲愴やったわ」


「そうかぁ……まともに弾いてなかったらそうなるわな」

オヤジはそう言うと腕組みをしてビールグラスを見つめていた。


「ちょっとピアノを弾いてみい」

そう言うとオヤジは立ちあがりカウンターの横の観音開きの鎧戸を開いた。

そこにはアップライトのピアノが置いてあった……というか隠してあった。


「こんなところにピアノがあったんや」


 僕は驚いた。この店にギターが置いてあるのは知っていたがピアノまであるとは思わなかった。

それにこの鎧戸の中はこの店の掃除道具なんかが入っているもんだと思い込んでいた。

安藤さんがスピーカーの音を消した。

店内から70年代ロックが消えて、静かな古い造りの英国パブが現れた。


 オヤジはピアノの鍵盤蓋を開けて無言で鍵盤をはじいた。

ポロンと寂しげな音が店の中に響いた。

その音を聞いた時に何故か『ああ、このピアノは早く弾いて欲しがっているな』と感じた。


 オヤジは視線で僕をピアノに促すと、立ち上がってピアノ前のテーブル席に座り直した。


 僕はオヤジに促されるまま立ち上がり、ピアノの椅子を手前に引き出した。


 古いピアノだった。


――オヤジが生まれた頃に作られたピアノじゃないのか?――


 鍵盤が少し黄ばんでいる。年代を感じる……が、ちゃんと手入れは行き届いているようだ。軽く鳴らしてみた。タッチも程よい重さだ。調律もちゃんとしてある。


 僕は鍵盤に手を置いて目を閉じて深呼吸した。

なんだか懐かしい感触がする。

瞼の奥に子供がピアノを弾いている情景が浮かんだ。

――僕か? いや違う……ああ、これは子供の頃のオヤジやないのか?――


 そんな情景が目に浮かんできた。この息遣いは間違いなくこれはオヤジだ。僕は確信した。


 とても楽しい感情が流れ込んできている。心地よい感情だ。

若い母さんが横にいる。そんな情景も伝わってくる。

そして……その心地よさがとっても辛くて悲しい感情に変わった。

これはオヤジがピアノを辞めた時の感情じゃないのか?


 涙も流れない乾ききった切ない旋律が聞こえた。


僕は導かれるように、その感じた旋律のままピアノを弾いた。


――これは、月光だ――


 僕の指はヴェートーベンのピアノソナタ月光を弾き奏でていた。

この古いピアノに刻まれていた旋律がこれだ……僕はその時それが伝わってきた。

ピアノに導かれるまま僕指は鍵盤の上を踊った。


 ダンパーペダルを踏む右足は雲の上を歩いているように実感がない。

そして僕の右手はあやつられているかのように正確に一番いいタイミングと強さで最初の三連符から音を刻んでいった。


――この音はオヤジのピアノだ――


 そう、これはオヤジが弾いているピアノの音だ。今弾いているこの旋律はオヤジの旋律だ。渾身のオヤジのピアノ。なぜこんなに哀しく切ない音なんだ? 


 今の僕にこの音は出せない。でも確かに今僕は弾いている……いや、弾かされていると言った方がこの場合正しい表現に思える。


 僕は初めてこの曲の本当の音の流れを知ったような気がした。

弾いていてこんな不思議な感覚になったのは初めてだった。まるでオヤジに手に引かれて湖の畔(ほとり)を月の明かりを浴びながら散歩している気分になっていた。鍵盤の上で僕に指は操られたように哀しい音を奏でていた。しかしそれは決して侘しい音ではなかった。そして僕は心のどこかでこの旋律を心地よく感じていた。

伝わってくるオヤジの感情とは別に、このピアノの旋律が自分の指から生まれているという喜びに心地よさも感じていた。


 僕は弾きながらオヤジのピアノの凄みを知った。オヤジはこの歳でこんなにも一音一音に魂を削るような弾き方をしていたんだと分かった瞬間、さっき感じた心地よい気持ちは一瞬で消し飛んだ。


 この音を出すのは今の僕には到底無理だ。


 今は習字で先生が指を添えて一緒に書いてくれているような状態。

半紙の上には美しい文字が踊っているが、これは僕の文字ではない。確かに書いたのは僕だが、先生が添えた手で書かれたものだ。


 今の僕の感じている感覚はまさにこれだ。

この美しく哀しい調べは僕の調べではない。

心地よくこの調べを僕の聴覚は感じ取っているが、頭の中ではオヤジの憶いが渦巻いていた。なんという矛盾。


僕はピアニストとしてここまで、鍵盤に想いを込めることができるだろうか?


 いや、僕も僕の音を奏でてみたい。そんな思いがふつふつと湧いてきているのも分かった。

ピアノを弾くことは鍵盤に自分の想いを込めることなのか?


 そんな事を考えながらも僕は、鍵盤の上を踊り続ける自分の指を他人事を見るような感覚で見ていた。


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