第35話 マスターに聞いた

「ああ、それで急に悲愴なんか弾いたんや」

とオフクロが納得したように頷いた。


「うん」


「分かり易い子やなぁ」


「まあな。母さんの子供やからな」


「そうかぁ……それはしゃあないな……でもお父さんも『悲愴』をよく弾いていたわ。とっても明るく弾いていたけどね」

オフクロはそう言って笑った。

そして

「私はあんたがピアノをやるのは賛成よ。我が息子がカッコよくなれる瞬間やからね」

と付け加えるように言った。


「そんな理由でピアノなんか弾けるか」


「ええやん、そんな理由で弾いたって。それに伊能先生もあんたには才能があるって言うとったしね。また習いに行けば良いのに。お母さんは賛成よ」


「うん。考えてみる」

僕はそう答えたがその前にオヤジがピアノを辞めた理由の方が気になっていた。

何故かそれを聞いた後に自分の進むべき道も決められるような気がしていた。



「お父さんの辞めた理由は本人から聞きなさい。多分あんたにはちゃんと教えてくれると思うから」

そう言うとオフクロは思い出したように自分の部屋へ鞄を持って入って行った。


「そろそろご飯を作らなくっちゃね」

と言いながら……。



 聞いたら教えてくれるとは言われたが、「はいそうですか」とおいそれと聞けるものでもない。

オヤジが怒らないとしても不機嫌な顔になって「知らん」とか言われるのも嫌だった。

オヤジがどんな態度に出るか想像もつかなかった。


 結局、週末までその件に関しては悶々とした気持ちで過ごす羽目になった。僕は思った以上に小心者だ。


 そして金曜日の夜に僕は安藤さんの店に向かった。

それは意を決してオヤジに直接聞くためではなく、その前にオフクロやオヤジと同級生だった安藤さんなら、何か知っているかもしれないと思いついたからだ。

我ながらなんでこんな事に直ぐに気がつかなかったのだろうと、ちょっと自己嫌悪に陥りそうになった。


 しかしカウンターに座り安藤さんを目の前にすると案外聞けないもんだ。

『そんな事は本人に聞け』と間違いなく言われそうな気がしていた。


 それでもオヤジに対する好奇心には勝てなかった。

「安藤さん、少し聞いても良いですか?」

僕は思い切って安藤さんに話を切り出した。


「うん?どうした?」

安藤さんはドリップにお湯を注ぎながら僕の方をちらっと見て言った。


「僕の父はピアニストを目指していたとうちの母が教えてくれたんですけど、それって本当ですか?」

僕は思い切ってストレートに聞いた。というよりそれ以外の聞き方を思いつかなかった。



 安藤さんは黙ったまま少し考えているようだった。

ドリップのコーヒー豆は綺麗に盛り上がりドームを作り出していた。安藤さんはお湯を注ぐのを止めてそれを黙って見ていた。沈黙がカウンターを支配した。僕がそれに耐え切れなくなる前に安藤さんが口を開いた。


「ユノが言うたんかぁ……まあ、隠すような話でもないしな」

安藤さんはドリップを見つめたまま答えた。思った以上に普通の対応だった。


「ピアノを辞めた理由はよぉ知らんねん。あいつも何も言わんかったからなぁ。だから俺も聞かなんだんや」

そう言うと安藤さんはタバコを取り出して口にくわえた。しばらくそのまま無言で何かを考えているようにも見えたが、おもむろに手元にあった着火マンでタバコに火をつけた。


 そしてゆっくりと煙を吐き出すと、安藤さんは語りだした。

「高校三年生の終わりやったなぁ……俺はてっきりユノと同じ芸大に行くもんやと思っとったんやけど違うかった。

だから芸大には落ちたもんだと思ってその事には触れんかった。一平なら絶対に受かると思っとったからな。実際は芸大は受験さえもしていなかったんやけどな……これは後で一平に聞いたんや。

 で、春になって俺たちは上京した。大学は皆違ったけど、お互い東京やったからな。一平も芸大ではなく普通の大学に進学したし……それっきりピアノの事は話題にも登らんかった。その次に一平に会ったのは夏休みやったからなぁ。もうそんな話は過去の話になって記憶からも消えていたわ」


 オヤジもオフクロも安藤さんもそして鈴原さんも東京の大学に進学した。

大学時代はそれぞれの大学での付き合いもあるので、安藤さんもオヤジとオフクロとは年に何回か会う程度だったようだ。

だからピアノを辞めた理由もはっきりとは聞くことは無かった。


 僕は当てが外れて残念だった。やはりオヤジがピアノを辞めた理由は直接本人から聞かねばならないようだ。


安藤さんが居れたての珈琲を僕の目の前に置いた。


僕は珈琲カップを見つめながら

「今日は父さん来えへんのかなぁ」

と安藤さんに救いを求めるような声で聞いた。いや、自分の声がそんな風に聞こえた。


「多分来るやろ。そろそろ来てもええ頃やねんけどな」

安藤さんがそう言い終わるのを待っていたかのように、扉のカウベルが鳴りオヤジが店に入ってきた。


「安ちゃん、腹減った。何か食わせろ。その前にビールくれ」

オヤジはそう言うと僕の頭をぽんと叩いて隣に座った。

座りながら

「お前は飯食うたんか?」

とオヤジは聞いてきたので僕は

「うん、食べてきた」

とひとこと応えた。


「そうか」

とオヤジは頷いた。

 

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