北野坂パレット
うにおいくら
父さんの色
第1話 再会
その日、生まれて初めてオヤジに会った。もう少し正確に言うと15年振りにオヤジに会った。
懐かしさよりも不思議な感覚を味わった時間だった。
「この人が居たから俺がここにいる」
自分という存在を他人によって認識する事がある……という事を初めて知った。
それは突然の話だった。
「お前、父さんに会いたい?」
高校の入学式当日。家に帰ってきて学生服から私服に着替えてリビングで甘ったるい紅茶を飲んでいたら、マイセンの珈琲カップで焼酎のロックを飲んでいたオフクロが僕に言った。
僕はこの母親の事をガサツな母親だ……と思っているが他の人は「個性的な人だ」という。「それが魅力だ」ともいう。
そんな
物心つく頃には父親が居ないのが当たり前の家庭が出来上がっていた。
だから父親の話題に触れる事はほとんど無かったし、離婚した本当の理由も聞いたことがない。
1歳頃までは一緒に暮らしていたらしいのだが、両親が離婚して以来オヤジには一度も会っていない。
勿論、オヤジに関する記憶は全くない。
そんな全く予想もしていなかった僕に唐突にオフクロはそう聞いてきた。
「なんで急に?」
「あんたも高校生なんだし、父親の顔ぐらい見ていても良いんじゃないのかと思ったんやけどね。どうする?」
正直に言ってどっちでも良かった……というか答えようが無かった。
唐突に「仮面ライダーに会いたいか?」と聞かれたような気分だった。
――アナタハ、ナニヲ言ッテイルノデスカ――
しかし一応会うのは父親だ。間違ってもライダーキックを喰らうことはない。
唐突ではあるがオフクロの言葉なのでそれなりに考えた。
会いたい気持ちも無いわけでもないが、今更…っていう気もしないでもない。
「もしかして……それって思いつきかぁ?」
「そう、思いつき……だから途中で気が変わるかもしれん」
「う~ん。だったら会ってやっても良えかな」
やはりオフクロの得意技である思いつきだった。しかしこのガサツなオフクロに「思いつき」とかいわれると、父親に会えるのがこれが最初で最後のチャンスのような気がして僕はオヤジに会う事にした。
「会ってやってもいいか……それでもあの人は喜ぶんやろうな」
オフクロが呟いた。
「何が?」
「こっちの事や。あんたも高校生なんやからその甘ったるい紅茶はやめて珈琲ぐらい飲んだら?」
「俺はこれが好きなんや」
「まだまだ子供やな。父さんに会う時は飲むんだったら珈琲にしいや。でないとガキ扱いされんで」
なんとなくオフクロのオヤジに対する対抗心みたいなものを感じた。甘やかせたと思われるのが嫌なんだろうか?
今更、僕に対する教育方針を振り返ってどうする。
「そもそも、珈琲も飲まずに昼間から焼酎を飲む奴が何をいうやら……」
「お母さんは大人だから良いんです。珈琲はお酒を飲んだ後に飲むから美味しいの」
その理屈は子供には分からんわ。
そもそも、突っ込まれたら言葉遣いが丁寧になるのは何故だ?
で、目の前にオヤジが居る。初めて会った実の父親。
同じ空間に父親がいるという違和感は半端ではない。クラクラしそうだ。これを存在感というのだろうか?
今まで何度か会いたいと思った事もあった。何故僕には父親がいないんだとオフクロに聞いた事もあった。聞いても教えてもらえなかったが……。
その父親が目の前にいる。
――この人が居たから僕が居る――
思った事はそれだけだった。
僕は父親に初めて会った事よりも、この男が何をして今まで生きてきたのかに興味が湧いていた。
もしかしたら僕は父親の存在よりも、父親の言葉が聞きたかったのかもしれない……とオヤジの顔を見ながらそう思った。
GW前のある日の夕方、オフクロに指示されたトアロードのカフェバーに僕はいた。
天井からぶら下がったJBLのスピーカーからはオフクロが好きな70年代の洋楽が流れていた。
それを店の一番奥まった席でブラック珈琲を高校生になって生じた変なプライドに従って無理して飲みながら聞いていた。あまり美味しい飲み方だとは思えなかった。
「お父ちゃんって呼んだらいいのかな?……いやいや、それは子供っぽいだろう。紅茶どころの騒ぎではないな…やっぱりお父さんか?…なんだか真面目ぶっているな…やはりここはオヤジだな。でもそれはおっさん臭くないか?……」
オフクロではないが、甘やかされて育ったとは思われたくなかった。別に甘やかされたとは思っていないが……
等と考えていたら急に名前を呼ばれた。
「亮平?」
見上げるとそこにオヤジの顔があった。
考えに没頭していてオヤジが店に入ってきた事に気がつかなかった。
第一印象は重要だと思っていたのに最初からこけた。不意を突かれた。
オヤジはテーブルの反対側に立って僕を見おろしていた。
「初めまして……父……です」
「初めまして……息子……です」
オヤジは不思議そうな顔をして僕を見ていた…なぜかそんな風に感じた。
僕も同じような顔をしていたのかもしれない。少なくとも虚を突かれて慌てふためいてはいたのは隠しようがなかった。
オヤジは思ったより若い……というか若く見える。
格好もとってもラフでサラリーマンには見えない。40代にも見えない。
ボタンダウンのシャツにジーンズ。濃いブルーのスタジアムジャンパーを羽織って立っていた。胸にはカルフォルニア大学バークレー校と刺繍がしてあった。
僕は座ったままだった事に気がついて慌てて立ち上がろうとしたが、オヤジは軽く手で制して
「アンちゃん、俺にも珈琲くれ」
とカウンターの方に少し首を傾けてマスターらしき人に声をかけながら、僕の向いの椅子に座った。
なんだか慣れた動作だった。たかが椅子に座るだけなのだが、なんだかこの店の雰囲気通りの座り方だった。
何故か大人だなぁと思った。僕のオヤジなんだから大人なのは当たり前の事なのだが、始めて見る動くオヤジだからか何を見ても新鮮だった。
マスターが聞く
「一平、ビールでなくてええんか?」
「ああ、ダメ人間になるにはまだ早すぎる」
「そうやな、しょっぱなからダメ親父をさらけ出さなくてもえーからな」
マスターは笑いながら応えた。
「そういう事や。後1時間は素面でいるわ」
そう言いながらオヤジはじっと僕の顔を見ていた。
視線を外せない。
目の奥まで覗き込まれているような、そして吸い込まれてしまいそうな瞳だった。
オヤジの威圧感というか迫力を全身で感じたような気がした。ちょっとビビった。
ふとオヤジは視線を外し天井に目をやった
「お母さんは元気か?」
と聞いてきた。
「う、うん。いつも焼酎飲んでいる」
こんなことを言っても良かったか?とは思ったが言った後に思ったところで仕方ない。
ちょっと声がうわっずっている。
「ふ~」とオヤジは息を吐いて視線を僕に戻した。
「そっか……お前は?」
「え?」
「お前はお母さんと一緒に飲んでないのか?」
「まだ高校生になったばかりの息子に聞くか?」
「そうか……そうやったな」
オヤジは軽く自嘲気味に笑って頷いた。
「父さんは高校時代に飲んでたんか?」
「いや…それは……ないな。うん。飲んでないな……飲んでないよ。亮平くぅん」
と眉間に皺を寄せ、ワザとらしい嘘臭い顔で僕に応えた。
結局、僕の口から出たのは「父さん」だった。
「お父ちゃん」でもなく「お父さん」でもなく「オヤジ」でも「オトン」でもなく「父さん」だった。
自分でも余りにも普通過ぎたので心の中で笑った。
「この小心者め」
しかし突っ込まれて標準語になるのは、オヤジの癖か?
やっぱりオフクロとオヤジはやっぱり夫婦だったんやな……そして僕の親だわ。
なんか妙な安心感を覚えた。ただオヤジもやっぱり酒飲みのようだ。
マスターがにやにやしながら珈琲を持ってきてくれた。
「お待たせ。お・と・う・さ・ん」
「何がお父さんや……お前にお父さん呼ばわりされる筋合いはないわ」
そう言うと僕に
「あ、亮平。こいつなぁ安藤っていうねんけど、父さんの中学校時代の同級生なんや」
と紹介してくれた。
「そう。このお・と・う・さ・んとは中学校時代から一緒。お母さんも良く知ってるよ。お・か・あ・さ・んも良く来るし……」
と安藤さんというそのマスターは教えてくれた。
見た目はちょっと怖そうな人だったが、本当はいい人なんだろうなあと思えた。
「じゃあ、ここでお・と・う・さ・んはお・か・あ・さ・んと会ってんの?」
と僕は聞いた。
「ああ。たまにな……でもお前まで真似せんでエ・エ・ぞぉ……」
オヤジはまた眉間に皺を寄せて、あえてワザとらしい怒った顔を見せた。
「あ、ごめん……つい」
なんだか意外だった。僕の知らないところで二人は会っていたりしていたんだ。
「会っていたらおかしいか?」
「いや、そういうわけではないんやけどね」
「そっか」
なんだ仲が悪いわけではないんだ。ちょっと安心した。
僕は珈琲カップに視線を落としてカップの中の珈琲を見ていた。
視線を上げるとオヤジは、珈琲カップの取っ手に中指を突っ込んで鷲掴みするように持ち、珈琲を一口飲んでいた。
なんだかオヤジぽくでカッコいいなと思ってしまった。
「一平、たまに元夫婦で逢引きしとんねんな」と安藤さんが口を挟む。
「ちゃうわ、逢引きゆうな」
マスターの安藤さんはオヤジをいぢくるのが楽しい様だ。
15坪程度の広さの店は、マスターと僕達だけだった。
古きイングランドのパブを模したこの店の居心地は良い。
二人の関係が良いからなのか、僕はこの空気感があるこの店が気に入った。
こういう店を気に入るっていう感覚が不思議だったが、何故か少し大人の空気を吸ったような気がした。
扉が開いた。カランカランとカウベルの音が店内に響く。
「一平が息子に会っているって?」
大きな声が店内に響いた。
「お?鈴原かぁ、そろそろ来ると思ってたわ」
マスターがカウンターに戻りながら、入ってきた男の人に笑いながら声をかけた。
「なんでお前が知ってんねん」
オヤジは軽く振り向いて入ってきた人に声をかけた。
「さっきそこで君の元嫁のユノに偶然会って聞いた」
その人はそのまま僕とオヤジのテーブルの前まで来て
「ほっほ~、一平君……おとんの顔になっとるのぉ」
と「あんたはどっかの仙人か……」と突っ込みたくなるような年寄り臭い声でオヤジに話しかけてきた。
「あほ。いつもの顔や」
「いやいや。ワシには分かるぞぉ…感激の親子の対面じゃ。のぉ一平君……」
「ふん」
と言いながらオヤジは笑っていた。これってやはり嬉しいのだろうか?
そもそもオヤジはいぢられキャラか?
オッサン3人に囲まれて僕は少し息が詰まった。
僕はさっきまで馴染み始めていたこの空間が、急によそよそしく感じられた。
阪神-巨人戦を甲子園球場に見に行って3塁側に座ったような居心地の悪さを感じ始めていたら、その人は急に僕の方に振り向き、
「お~亮平君かぁ。初めまして鈴原です。やっとちゃんと会えたわ、ホンマに……。お父さんもお母さんの雪乃さんも幼馴染で、昔から色々とお世話をして差し上げております」
と話しかけてきた。
ちょっと驚いた。
「けっ!」とオヤジが舌打ちをした。
その顔には「嫌味なやっちゃなあ……」とありありと書いてあった。
折角、いぢってもらえているので僕も椅子から立ち上がると
「そうなんですか。不束者の両親がいつもお世話になっております」
と応えた。
鈴原さんは僕の顔をじっと見て
「お前、ええ息子持ったなぁ……」
とオヤジの方に向き直った。
途端に
「うわ!こいつなんちゅう顔してんねん。気色悪い笑い方すんなぁ」
と叫んだ。
「いや、息子に『いつも両親がお世話になっております』なんて言われたことないから、なんかカンドーしてしもた」
確かにオヤジの顔は変な顔だった。
笑っているのか泣いているのか分からない不思議な顔だった。
「あ~その気持ちわかるなあぁ…日ごろ家庭にも子供にもかまってやる事のない鈴原のようなバカオヤジには判らんだろうが……」
と安藤さんが突っ込んだ。
「なんか反論できんのが悔しい……」
と鈴原さんは言いながら
「俺にも珈琲……いやビールくれ」
とマスターに注文した。そういうとカウンターの方に戻っていった。
僕は三塁側から一塁側の内野席に移ったような安心感を覚えた。この人達の空気感は暖かい。
「そう言えば鈴原んとこの冴子は亮平と確か同じ高校に行ったんやなかったけ?」
オヤジが鈴原さんに聞いた。
「あ、そうや。ユノがそんな事言うとったわ」
「え、鈴原冴子のお父さんですか?」
今度は僕が思わず聞いた。腰も浮いた。まさか同級生の鈴原冴子のお父さんがオヤジと同級生だとは知らなかった。
「そうやで。親同士、子供同士は同級生でよく会っているのに親子で会うのは初めてやなあ」
鈴原さんはカウンターでビアグラスを手にして応えてくれた。
「そうかぁ……初めてかぁ……」
オヤジは天井を見上げて呟いた。
オヤジの背中越しに
「そや。一平お前が悪い。お前のおかげでまともに会えんかったんやからな」
と鈴原さんは突き放すように言った。
「そっかぁ……気ぃ使わしとんのぉ……」
オヤジはまた呟いた。
「ま、親子の会話を邪魔するのは止めとくわ。一平、後で時間くれ。相談したい事があるねん」
と言うと鈴原さんはビールを煽った。
JBLのスピーカーからは相変わらず70年代のロックが流れている。
「お前も不幸やな」
オヤジが珈琲カップを置くと僕に言った。
「何が?」
「初めて父親に会った日に一番変な濃い奴らに会ってしまうなんてなあ」
「そうなん?」
「ああ、そうや。ホンマにそうや」
今度は眉間に皺は寄せずに、人生の全ての不幸を背負い込んだ男を憐れむベニスの商人のような顔で僕を見て首を振った。
カウンターから
「聞こえてんぞぉ」
とマスターの声が。
それをオヤジは無視して真顔で
「もう高校生になったんやな」
と聞いてきた。
オヤジは案外表情が豊かな人だ。
「うん」
「どうや、高校生活は?」
「ぼちぼちやな」
「そうか」
オヤジに会ったらオフクロには聞けなかった離婚理由とか色々聞こうとおもっていたが目の前にオヤジがいるというだけでどうでも良くなった。聞きたくても聞けなかった。そんな雰囲気ではなかった。
そして会話が無くなった…。
確かにそんな雰囲気ではなかったが、テーブルを挟んで横たわるこの沈黙の空間を眺めながら実は僕は迷っていた。
離婚理由も聞きたかったが……本当はそれよりももっと聞きたい事があった。
それは『何故今頃会う事になったのか?』いや正確には『何故十六年間も会いに来なかったのか?』という事だった。
『こんな近くに住んでいるのに何故一度も息子と会おうともせずに放置プレイするとはどういうことなんだ?』ぐらいは息子として聞いても良いんじゃないかと思い始めていた。
でも、実際の僕はオヤジの顔色を伺うばかりで口を開く事が出来なかった。その上『タイミングを見計らって日を改めて聞けばいい』とか『オヤジがその内に教えてくれるだろう』とか都合の良い言い訳で自分の気持ちを誤魔化していた。
ひとことで言ってしまえば自分の口からそれを言い出す事が何故か怖かっただけだ。
唐突にオヤジが口を開いた。
「彼女とかおるんか?」
沈黙に耐え切れなくなったオヤジが苦し紛れに僕に浴びせた質問だった。
「おらへん」
ちょっとうざくなってきた。さっきまでの心の葛藤が一瞬で憤りに変わりかけた。
そんな話どーでもええやろ。あんたに関係ないやろ。放っておいてくれ。
どうせ彼女なんかおらへんし、そんなん説明するのも面倒くさいやろ……
その前に学校は楽しいかとか勉強はどうかとか他に聞きこといっぱいあるやろぅ……て聞かれたら聞かれたでそれはそれで面倒くさいけど……等と一気に考えてしまった。
要するにコッパズカシかった。そんな事を生まれて初めて会話を交わしたような父親に聞かれて、真顔で応えられるほど僕は大人になっていない。
しかし……十数年会ってなくても親子関係とは直ぐに正常化するもんらしい。
オフクロに同じ質問されたら「人の心配する前に自分の心配しせえよ」って言って終わっている。
それを言うか言わないかが十数年一緒に居たか居なかったの違いだな。
その程度の差だな。
そう、所詮年頃の息子と父親では会話は続かないようになっている。
それにオヤジも気づいたらしい。僕の顔を見て全てを悟ったようだ。
「今日はまだ時間あるんやろ?」
オヤジは聞いてきた。
「うん」
僕は頷くしかなかった。
「鈴原も安藤もこっち来て飲めよ。ビールの時間がやってきた!」
オヤジはカウンターに向かって声を掛けた。
カウンターで笑い声が響く。
「やっぱり耐え切れんかったな……父親ビギナーの一平君にはこれが限界か」
安藤さんの声が響く。
「そうやな。もう少し間が持つかと思ったが、案外早かったな」
そう言いながら鈴原さんが片手にビアグラスを持って、満面の笑みを浮かべながらこっちのテーブルへとやってきた。
「まあ、親子の会話なんてそんなもんだよ。親子ってな話をしなくても伝わるんや。特に父親はな」
鈴原さんは慰めるようにオヤジの肩を軽く叩いてオヤジの横の席に座った。
「つもる話なんてないもんだな。亮平に会ったらそんな話どうでも良くなったわ」
「いいんじゃないの? それで」
鈴原さんはオヤジの横顔を見ながら笑っていた。
「亮平君。お父さんとは長い付き合いだけどな、こんな表情のお父さんを見るのは初めてや。こんな嬉しそうで楽しそうなお父さんは初めてやわ。もし他にあるとしたら君のお母さんと結婚した時位かもしれない」
そういう鈴原さんもとっても楽しそうだった。
「離婚した時の間違いやないのか?」
「亮平君。ま、こんな素直じゃない父親だけどよろしく頼むよ。こう見えても頭だけは良い」
「だけはとはなんだ」
「頭良いは否定しいひんのやな」
と言って鈴原さんはビールを飲んだ。
この人たちの会話は楽しい。
こういった人に囲まれているオヤジを見たら実は僕も嬉しくなっていた。
そしてこの人達と一緒にいるのがとっても楽しかった。でもオヤジはどうやら、このメンツではいぢられキャラのようだ。
さっき感じたアウェイ感はもう完全に無くなっていた。今は完全に甲子園の一塁側アルプススタンドだ。
「ま、今日の一平は父親の顔をしているわ」
「そうかな」
オヤジは呟くように言った。
「ほい。一平、ビール。それと亮平君にはコーラね」
マスターがテーブルにビールとコーラを持ってきてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「君なんて要らんよ。亮平でええわ。な?」
とオヤジが言った。
「うん。それでいいです」
「了解。じゃあ亮平、ピザ食うか?」
安藤さんは言い直して僕に聞いた。
「はい」
「もうじき焼けるからちょっと待ってて」
「亮平、この店のピザは美味いで。ピザマルゲリータやっけ?」
「普通のミックスピザや。あほ」
安藤さんは間髪入れずに応えた。数十年培った息の合った間合いを感じた。ここはやはり関西で神戸だ。
「それでは改めて、かんぱ~い」
鈴原さんの声が響いた。
四十代のオヤジ連中って案外若いのかもしれない。くたびれたおっさんというイメージしか無かったが、この人達は違う。
こんなオヤジ連中なら将来なっても良いなと思った。
「ところで鈴原、さっき言ってた話ってなんなん?」
ビーフジャーキーを片手に持ってオヤジが鈴原さんに聞いた。
「ああ、ええんか? 親子の貴重な時間を潰して」
「気にせんでええわ。もう潰れとる。で、なんなん?」
「いやね。知り合いから相談を受けてね。お前にも聞いてもらおうかと思ったんだが。フローラって知っているやろ?」
「西洋菓子処フローラか?」
「そう、あそこ経営やばいらしいねんけど。何とかならん?」
「なんや。お前の会社、金出すんか?」
「うん。一応出そうか……な……と」
「へ~……決算書とかあんの?」
オヤジは驚いたような顔をして鈴原さんの顔を見ていた。
「あるで。ちょっと待ってな。え~と。あ、あった。これや」
鈴原さんはショルダーバッグから書類の束を出して、オヤジに手渡した。
オヤジは持っていたビーフジャーキーを一口で食べ、手をおしぼりで拭いてからそれを受け取るとパラパラとめくった。そしてあるページで手が止まった。
そこには訳の分からない数字がいっぱい書いてあった。
そのほとんど数字しか書いていない書類から何かを読み取ろうとしている。
そこに隠されている大事な事を見逃さないように探しているように見えた。
オヤジにはこの数字からこの店の状況が分かるようだ。
視線が数字から離れた。
「キャッシュフロー悪いな。やっぱり……。銀行からの借り入れは……1億ほど残ってんな。リスケしたんか?」
「1回やっている。もう1回お願いしたけど、はねつけられたらしい」
鈴原さんも書類を覗き込みながら応えた。
「そうか、2回も支払猶予はしてくれんやろ」
「まあな」
オヤジは再び書類に目を落して
「ここの社長なあ……知っているわ。職人としてはええ腕してたんやけどなあ……経営者としてはなぁ」
と呟いた。
「そうやねん。でもな、ここら辺のケーキ屋では結構な重鎮やろ? だから何とかならんんかって……」
「鈴原、お前、本当はこの話……銀行がもって来た余計な話やろう? ちゃうか?」
オヤジは書類から目を離し上目遣いで鈴原さんを見た。
「あ、分かった?」
鈴原さんはそう言うとバツが悪そうに舌を出した。
「シナリオが出来過ぎや…」
「やっぱりわかるかぁ……」
オヤジは書類に目を落としながら
「この銀行からの借入金を何とかしたら、とりあえずは一息つけるな。で、この社長はいらんな…昔は腕のいい職人も今は単なる出来の悪い経営者や。味もええ。まだ神戸では人気の洋菓子店や。経営さえしっかりしたら立て直せるな」
「そうか。一平もそう思うか」
オヤジのひとことに鈴原さんの表情が明るく変わった。まるで一筋の光明を見たような期待感が浮かんでいた。
オヤジは顔を上げて鈴原さんの顔をじっと見て
「思う。思うけど店舗は5店舗までにせえよ。それ以上はもたん。そういう店やない」
と答えた。
「全国展開できんか……」
明るくなりかけた鈴原さんの表情に少し暗い影が差した。
「できるか……。そんな規模の商売ではない事ぐらい判るやろ?」
オヤジはそんな事はお構いなしに突き放すように言った。
「まあな。お前ならできるかなと」
「アホか。それに第一これを誰にやらせるつもりや?おらんやろ?」
「そうやなぁ、うちは人おらんからなぁ……下畑とか田中とか稔はどう?」
「スズハラ本社の人間持ってきてどうする……。そもそも畑違いや」
「なあ、一平……暫くここの社長してくれへんか?」
「やらん。お前ができへんのやったらシラッチを社長にしたら? ちょうどええやろ。サポートやったらしたるから」
間髪入れずに何の躊躇もなしにオヤジは断った。
社長就任依頼ってそんなに簡単に断って良いのか?……と思いながらも僕は二人の会話を黙って聞いていた、
「白河かぁ……できるかなぁ……」
「父さん……聞いても良い?」
僕は思わず口をはさんでしまった。
「なんや?亮平……どうしたんや」
オヤジは怪訝な顔をして僕を見た。
「このケーキ屋の社長って上田っていうの?」
「確かそうやったな。なんや知り合いか?」
「いや、そうい訳ではないんやけど」
「まあ、ええわ。この話は明日事務所でやろう。今日は一平と亮平の再会を祝して飲もう! 一平、明日の朝は北野の事務所に来てくれ」
と鈴原さんが話を切り上げた。
「分かった。んじゃぁ、8時過ぎに行くから朝飯を用意しててね」
「はいはい……モーニング用意しとくわ」
鈴原さんは半ば呆れたような感じで返事をした。
そこへカウンターに行っていた安藤さんが戻ってきた。
「亮平、ピザ焼けたで。ピザマルゲリータや」
「単なるミックスピザとちゃうんかい!」
今度はオヤジが突っ込んだ。
このケーキ屋の社長は宏美のお父さんだ。間違いない。
オヤジギャグがさく裂する中、僕の頭の中には同級生の宏美の顔が浮かんでいた。
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