第317話ぽっぽちゃん

 その誰かは返事をする代わりに、僕が弾いているピアノに合わせて歌い出した。

僕の耳に届いたのは女性の声だった。良い声だ。まるで僕の掛けた言葉に応えるかのような淡々とした歌声だったが、これが僕の問いに対する答えならそれはそれで充分だった。


僕もそれに合わせてピアノを弾いた。


――この子は僕の伴奏をお望みのようだ――


 その彼女の声は切なくて儚い、何故か胸を締め付けられるような気分にさせる声だった。それでいて聞いている内に優しく包まれてしまう、そんな癒されるような気分にもさせる不思議な歌声だった。

さっきまで彼女はこの曲をピアノを弾きながら歌っていた。ピアノにはまだ彼女の余韻が残っていた。


 彼女の歌声は徐々に感情が入っていく。思った以上に声量がある。歌い慣れている声だ。

うちの学校にこんな歌姫がいたとは……。

歌声は僕のすぐ後ろ、少し首を右に傾ければ彼女の姿が目に入る位置から聞こえる。


その淡々と耳元で天使に語り掛けられているような歌声に導かれて、僕は最後まで振り返らずこの曲を弾いた。


弾き終わってそこで初めて視線を彼女に向けた。そこに立っていたのは同じ学年の女子だった。


――どっかで見た事あるんやけどなぁ。誰やったっけ――


と思案していると


「久しぶりやね。藤崎君」

と先に笑顔で声を掛けられた。


その声で思い出した。

彼女は一年生の時に同じクラスだった鳩崎澪だ。


 そんなに目立つ子でも無かったのであまり会話を交わした事が無かったが、人当たりの良い子だったような記憶がある。


昼休みは宏美や冴子ともたまに一緒に弁当を食べていたような気もする。


――こんなにも個性的な声してたんかぁ――


「藤崎君もこんな古い曲を知ってたんや?」


「うん。これって『The Rose』って映画の主題歌やったやつやろ? うちのオカンが好きで家でよくこの映画のDVD観てたから知ってんねん」

と僕は応えた。


「そっかぁ、やっぱり知っとたんや。だから弾き慣れていたんやなぁ……とっても歌いやすかったし……」

澪はそう言って笑った。


「ええ映画やったで。うちのオカンはジャニス・ジョプリンが好きやからな」

と言いながら僕は映画の内容を思い出していた。この映画のヒロインはロックシンガーのジャニス・ジョプリンがそのモデルになっている。

 オフクロが最後は泣きながら焼酎を煽っていた事とその後に僕にこの曲を強制的に有無を言わさず弾かせていた事は敢えて言わなかった。

まあ、ぽっぽちゃんが歌いやすかったのであれば、それなりの意味はあったのかもしれない。


「私もあの映画好きやわ」

と鳩崎澪と言った。彼女もジャニス・ジョプリンが好きなのだろう。


「それにしても、ぽっぽちゃんって歌巧いなぁ……」

と嘘偽ざる気持ちが自然と声に出た。鳩崎澪はその名前からクラスメイトからは『ぽっぽ』と呼ばれていた。


「ホンマ? ありがとう。一度、藤崎君の伴奏で歌ってみたかってん」

と屈託のない笑顔で彼女は言った。

やっぱり伴奏が御所望だったようだ。


「え? そうなん? こんなんでええんやったらいつでも弾くけど……この楽譜ぽっぽちゃんのやろ? 弾き語りの練習でもしてたん……」

と僕が聞いている最中に音楽室の扉を勢いよく開けて乱入してきた不心得者たちがいた。

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