第154話 美乃梨


 オヤジと爺ちゃんの言いつけとは言え、改めて考えるとどうやって美乃梨に声を掛けようかと悩んでしまった。

意識すればするほど不自然になりそうだ。こういうのはオヤジの方が適任じゃないのか? と思わなくもなかったが、案外簡単にそれは解決した。


 昨日、ここに来てから一度も弾いていなかったピアノだが、本家の応接室にアップライトのピアノが置いてある。ここにいる間、そのピアノを僕は借りる事にしていた。


 朝食が済んでから、僕はそのピアノに向かった。午前中は練習時間に充てるつもりだった。多分午後も弾いていると思う。

流石にここにいる間、全くピアノを弾かないという訳にはいかない。ここのピアノの感触はうちの家のピアノに似ているのでまだ弾きやすかった。


 鍵盤に指を置いた時にこのピアノから伝わって来たイメージは、真一さんの幼い時からの思い出だった。


――このピアノは真一さんが弾いていたんだ――


 どうやら彼も高校時代まではこのピアノを弾いていた様だ。それなりに真面目に練習していたようで、バッハの平均律クラヴィーア曲集を一生懸命練習している姿が見えた。プレリュード ハ長調 か……でもそんなに早く強く弾かなくても……と思わず突っ込みたくなった。


 それに感化された訳でもないが、僕も久しぶりにバッハを弾いてみたくなった。

と、その瞬間にオヤジの姿が脳裏に浮かんだ。正確には高校時代のオヤジだった。

 オヤジがまだ幼い真一さんにピアノを教えていた。黄バイエルが見えた。このピアノはオヤジも弾いた事があったようだ。そしてこの時はまだオヤジもピアニストを目指していた。


 ちょっとだけ真一さんが羨ましかった。僕もオヤジにこうやって教わりたかったなぁ思ったが、もしそうなっていたらそれはそれで鬱陶しいと思ったかもしれない。


 兎に角、今はバッハの気分だった。ツェルニーの50番を軽くさらってから、僕はこの部屋の本棚を漁り出した。

 この応接間の本棚は楽譜だけは充実しているので助かった。本当にこれを全部真一さんが弾いたのだろうか? と疑問に思う楽譜もあったが、僕にとってはありがたい状況である事は間違いなかった。


 バッハの曲集もあった。その中で『インヴェンションとシンフォニア曲集』が目に留まった。

同じものが僕の家にもあるが、こうやって他人の家で見つけると何故だかじっくりと見てしまう。


 他人の楽譜はなんだか見ていると楽しい。


僕はその楽曲集を手に取った。案外綺麗なままの楽譜だった。

今日の午前中はこれを弾く事に決めた。


 久しぶりに弾くバッハは、心が落ち着くような気がする。なんか荘厳な気分になる。バッハを弾いた後は暫くは他の曲を弾きたくなくなる。気持ちの切り替えが必要だ。


気が付くと僕は美乃梨の事も忘れてバッハを弾くことに熱中していた。


 もう何曲弾いただろうか? いつもとは違う曲を弾いていると案外ムキになってしまうもんだ。


それにこの曲集は懐かしい。この頃あまりバッハを弾いていなかったので、色々と昔の事を思い出しながら弾いていた。


 一呼吸おいて気持ちを切り替えて次の曲を弾こうと思った瞬間、背後で人の気配を感じた。

思わず振り返るとそこには、ソファに深く身体を預けて座っている美乃梨がいた。僕が唐突に振り返ったので驚いたような表情で僕を見つめていた。


「なんや、おったんや? 驚いたわ」

と僕は声を掛けた。


――なんと! 美乃梨の方からきっかけを作ってくれたわ――

と僕は心の中で喜んでいた。これで自然に美乃梨と会話ができる。


 美乃梨はジーンズにTシャツ姿で、薄い黄色のカーディガンを羽織っていた。この辺は山奥なので夏と言っても朝方は少し冷える。


「あ、ゴメン。驚かすつもりはなかってん。うちが入ってきた事全然気づかんぐらい集中していたから、声を掛けるのを迷ってん」

と、上目遣いに僕を見ながら美乃梨は言った。


「そんなに集中しているとは思っていなかったんやけどなぁ……」

 そう言い訳しながらも僕は、彼女がこの部屋に入ってきたことに全く気づけないほどには集中していた事を自覚した。

そして今は間違いなく完全にその集中力も切れてしまったので、少し休憩する事にした。


 一度立ち上がって背伸びをしてから、今度は美乃梨に向かってピアノ椅子に座り直した。


「亮ちゃんってピアノ上手いよね」

美乃梨はソファの前のテーブルに広げられていた楽譜を手に取りながらそう言った。

その楽譜はさっきまで僕が見ていた楽譜だ。


「え? あぁ……ありがとう」

急に予想外の事を言われるとドキドキする。


「さっきからバッハばかり弾いているんやね」


「うん。バッハの曲集弾いているからな」

この楽譜を見ながらモーツァルトを弾く奴は、あまりいないだろう。


「そっかぁ……ねえ、亮ちゃん、ピアニストになるってホンマ?」


――それを一体誰に聞いたんだ?――


「うん。目指してはいるけど」


「それでも……凄いなぁ」


「なにが凄いねん……全然凄いこと無いわ……別にピアニストになった訳でもないし……まだ大学にも行ってないし」


「いや、もうちゃんと自分の進む道が決まっているというか、分かっているっていうのが凄いなぁって」


「ああ、そう言う事ね。まあ、今一番やりたい事がこれだったって言うだけなんやけどね」


「それでも、少し羨ましい」


「そう?」


「うん……ねぇ、大学って……音大に行くの?」

美乃梨は手にした楽譜から目を上げて聞いてきた。


「うん。そんなもんかな」


「もしかして……ピアニストってお父さんが目指していたから?」


「それはあんまり関係ないけど、ああ……でもそれも少しあるかもしれんなぁ……美乃梨はなんでそんなん知ってんの?」

改めて考えてみるとオヤジの影響も少しあったかもしれないと思い直しながら聞き返した。


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