第155話美乃梨の直感


「私のお父さんが言っていた」


「ああ、なるほど」

 オヤジが若かりし頃ピアニストを目指していたという事は親戚縁者には当たり前の事実のようだ。


「実はね。俺はずっとピアノを習っていたけど、ピアニストになるっていう事は考えた事は無かってん。でも、こうやって音を奏でるって本当に気持ちええねん。楽譜の中の音符を俺を通して表現するってなんかこうワクワクするっているかなんて言うか……俺しか知らない音を表現したいって言うか……ま、そんな感じかな……何言っているか自分でも分からんけど」


 一言でいえばただ単に自分が聞こえている音、感じている音をそのまま再現したいだけなんだが、それってどうやって他人に伝えていいか分からなかった。ピアノで表現するよりも言葉で説明する方が難しい事もある。


 お嬢の存在を知る美乃梨ならちゃんと説明したら理解してもらえるかもしれなかったが、他人に僕の感覚を理解しても貰う事は最初から無理だと諦めていた。だから敢えてこれ以上の説明はしなかった。


「亮ちゃんに聞こえる音を奏でているんでしょ?」


「え?」

 僕は一瞬美乃梨の言った言葉が理解できなかった。まさかそれをひとことで美乃梨にここで指摘されるとは思ってもいなかった。なのでその言葉の意味を理解するのに少しだけ頭の中で時間が掛かった。


「違うの?」


「いや、違わないけど……なんでそう思うの?」


「だって亮ちゃん不思議な弾き方しているもん」


「不思議?」

僕は美乃梨の言っていることの方が不思議だった。


「楽譜見ながら弾いているのに何故か自分のピアノの音を耳で必死で拾っている風に見えたの……最初は『なんでそんな風に思うのか』と自分自身が不思議だったの……でも暫く見ていたら、亮ちゃんは楽譜を見ていないと気が付いたの……いや、一応見ているし目では音符を追いかけていたけれども、実は私には聞こえないけど亮ちゃんだけには聞こえる音を耳で拾って弾いているのではないか……そんな風に感じたのだけど……違う?」


「いや、違わん……でも、耳ではそんなに拾ってはいない……いや、最初の頃はそんな感じやったけど、今は違う。『次はこう弾くんだ』という事は身体で分かってる……あ、そうか……耳を澄ませて弾いていると言われればそうかもしれない。何か取りこぼしがあるかもしれないとはいつも思って弾いているから」


 僕は驚いた。美乃梨はわずか数曲、僕がピアノを弾くのを見て聞いただけでそれに気が付いた。

美乃梨に僕が聞こえている世界が聞こえている訳でもないのに、それを理解してもらえているなんて思ってもいなかった。


「なんで、美乃梨にはそれが分かんの? ……俺が聞こえている音が聞こえた訳ではないんやろ?」

僕は少し驚きながら聞いた。


「うん。それは聞こえてへん……分かったというかそう感じたという方が正しい言い方ではあるわ」

僕に語っている美乃梨本人が一番不思議そうな顔をしていた。


「そっかぁ……確かに僕には聞こえる音がある。本来この場でこう奏でられたはずの音が……オヤジの言葉を借りると『神だけが聞こえる音』というらしい」


「それって純正率とか倍音とかの事?」


「確かに倍音は天使の声とか言われる事もあるけど、それとは違う。この場所、この時、この空間で今一番いい音とでもいえばええんやろうか……この場所にふさわしい音楽ともいえるな……なんかそんな音が聞こえる。それは身震いするほど綺麗な旋律なんや。そういうその場で一番いい音を出すための弾き方を僕は模索しながら弾いているような気がする」


「要するに一番いい音を弾きたいっていうわけね」


「まあ、一言で言ってしまうと……そういう事になるかな」


「小難しい話は私には分からないけど、亮ちゃんの弾くピアノ音色はとっても好きよ。さっき初めて聞いたけど暖かい気持ちとなんか荘厳な気持ちになってしまったわ」


「まあ、バッハだからそれは仕方ない……」


「そうね。むやみやたらに荘厳だわ」

そういうと美乃梨は笑い出した。


「確かに……でも、それを言うとバッハに失礼だ」


「ほんとね」


僕たち二人は同時に笑った。


「でもいいよなぁ……亮ちゃんは」

一呼吸おいて美乃梨がぽつりと呟くように言った。


「何が?」


「だって聞こえるのが『神だけが聞こえる旋律』なんでしょ? 私なんかうめき声よ。うめき声。それも本当に不気味な……一平のおっちゃんが『先祖の声や』って言ってたけど、こんな先祖の声なんか聞きたくないわ」


と、恨めしそうな顔をして僕を見た。


「まあ、そう言われればそうやなぁ……」

としか僕は言いようがなかった。確かに想像もしたくない光景だ。


「でも僕もそれ以外にも余計なものも見えるし、聞こえるで」


「え?そうなん?」

美乃梨は驚いたように声を上げた。


「うん。楽しいモノばかり見えたり聞こえたりするなんてそんな都合の良い事はないわ。全部ひっくるめて受け入れる羽目になる」

 実際には確かに余計なものは見る事はあるが、美乃梨の経験したような事はあまりない。たまたまなんだろうけど、どちらかと言えば楽しい方が多い。でもそれは、美乃梨にここでいうのは憚(はばか)られた。

そんな事を言ったら絶対に美乃梨は拗ねる。それは間違いない。


「やっぱりそうなんや……」


「うん。残念ながら……」


「それじゃあ、亮ちゃんも大変やね」


「まあね。慣れたけど……ね」

 僕はそう応えながら心の中で「ゴメン」と謝っていた。

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