第156話 メヌエット
「あれからどう? まだ変な声とかは聞こえる?」
確かに美乃梨は僕と同じようにそうい物を感じる事が出来るようになったが、美乃梨の家は昨日オヤジが祓ったはず。少しはマシになったと思う。
「ううん。全然。家の中の空気も軽くなったような気がする。流石、一平おじさん」
美乃梨は本当に嬉しそうにそう言った。よっぽど辛い経験だったのだろう。
その美乃梨のホッとした顔を見て僕は安心したのと同時に、急にある曲が脳裏に浮かんだ。
「ふむ」
僕は軽く頷くとピアノに向かった。思いつくと我慢できない。
鍵盤に軽く指を乗せる。頭の中に今から弾く曲が流れる。軽くその音を整理してから僕は鍵盤を弾いた。
それはバッハのメヌエット ト長調BWV Anh.114だった。いや正確にはクリスティアン・ペツォールトが作曲した曲だ。
僕がまだ小さい頃はバッハの曲と教わっていたが、近代ではメヌエット ト短調 BWV Anh.115と共にペツォールトの曲として認識されている。
この曲はシンプルで簡単そうに聞こえるけど一音一音の強弱とメリハリは勿論だが、音の繋がりに気をつけていないと本当にてんでバラバラに音が弾けだしていいるだけの落ち着きのない曲になってしまう。
上手く弾けていないこの曲を聞くと本当にイライラする。
変にピアノを弾ける奴が適当にこの曲を弾くよりも、たどたどしくも幼子が頑張ってこの曲を練習している音の方が、数百倍好感が持てる。この曲を聞くたびに僕はいつもそう思う。
僕はト長調が弾き終わると、そのままト短調も弾いた。このニ曲はまるで和歌の上の句と下の句のように自然と対になる。この曲はどんな会話をしていたのだろうか?気になって仕方ない。
僕が鍵盤から手を離すと美乃梨は
「この曲は私でも知っているわ。亮ちゃんが弾くととっても優しい曲に聞こえる」
と言った。
「そう? それは良かった」
「でも急に弾き出すから驚いたわ」
「ゴメン……でも無性にこの曲が弾きたくなってしまったから」
僕は頭を掻きながら言い訳した。
「これもバッハの曲?」
「ううん。昔はそう言われていた時代もあったけど実はクリスティアン・ペツォールトの曲と言われている」
「へぇ、そうなんやぁ……それは知らなかった……と言うかその作曲家自体知らないわ」
と美乃梨は驚いていた。
「まあ、そんなもんだろうな」
僕もこの曲はバッハの曲だとつい最近まで思い込んでいた。
「あ、ごめんね。練習の邪魔をして」
美乃梨は急に思い出したように謝った。
「いや、良いよ。気にせんで」
僕自身丁度いい感じで休憩ができたと思っていたので、別に練習の邪魔をされたという気はしなかった。
ドアをノックする音が聞こえて扉が開いた。オヤジが顔を覗かせた。
「亮平、昼飯食いに行くぞ……って美乃梨もおったんか?」
と驚いたような表情を見せた。美乃梨がここにいるとは思ってもいなかったようだ。
「うん。亮ちゃんのピアノを聞いてたぁ」
と美乃梨は笑って応えた。
「そうかぁ。じゃあ、美乃梨も一緒に来るか?」
「ううん。お姉ちゃんとご飯食べるからいい」
と美乃梨はあっさりとオヤジの誘いを笑顔で断った。
そのまま
「ねぇ、また聞きに来ても良い?」
と上目遣いで僕に聞いてきた。
「うん。良いよ」
そう答えると僕はオヤジを見た。
オヤジは黙って頷いた。
「あ、そうだ! 亮ちゃんのおじさんってまだピアノ弾けるの?」
と美乃梨は唐突にオヤジに聞いた。
オヤジは驚いたような顔をして
「う、うん。多分まだ弾けるけど……」
と美乃梨の突拍子もない質問になんとか答えていた。
――何をこいつは急に言い出すんや?――
僕もオヤジと同じように驚いていた。
美乃梨は
「聞きたいなぁ……」
と素直にねだった。彼女は純粋にオヤジのピアノが聞きたいだけのようだ。
「なんで?……急に?」
オヤジは美乃梨に聞いた。
「お父さんや真一兄さんなんか一平おじさんのピアノ聞いてたって。で、凄いって自慢げに言っていたから」
「ふむ。美乃梨はピアノ習っていたっけ?」
オヤジは納得したよう何度か軽く頷くと美乃梨に聞いた。
「うん。小さい頃、お姉ちゃんと一緒に習ってた」
「そうかぁ……もうやめたん?」
「うん。中学時代にやめちゃった」
「そうかぁ……」
オヤジは美乃梨の返事を聞くと少し残念そうな表情を見せたが、それは美乃梨には分からないだろうと思うぐらい一瞬だった。
オヤジは
「なに弾いて欲しい?」
と美乃梨に聞いた。
オヤジは美乃梨のリクエストに応えて弾くつもりだ。
僕はオヤジがそんなに簡単に応えるとは思っていなかったので、慌てて椅子から立ち上がって美乃梨の横に並ぶようにソファに座った。
「う~ん。なんでもいい」
美乃梨もまさかオヤジが弾いてくれるとは思ってもいなかったようで、慌てて考えたが思いつかなかったみたいだった。
オヤジは黙ってピアノの前に座ると美乃梨に視線を移した。
「ふむ……」
そう呟くと暫くじっと美乃梨の顔を見ていた。
おもむろに美乃梨から視線を外すと鍵盤に目を落とした。
オヤジは手のひらを重ねて指を広げ柔軟体操をするように指をほぐすと、今度は右手の甲を軽くさすって暫く鍵盤を黙って見つめていた。
この前、安藤さんの店で弾いた時とは明らかに違う空気だった。勿論、今日はお酒を飲んでいない。素面のオヤジだ。
僕はこの予想外の展開にドキドキしていた。いや、素面のオヤジがピアノの前に座っている時点でどうしようもないぐらい興奮していた。
部屋に軽い緊張感が漂った。
オヤジは美乃梨を見て何をイメージするのだろう。その興味も急に湧いて出て、さらに気分が高揚してきたのが分かった。
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