第376話レッスンにて

 その夜である。

部活が終わってから僕は渚さんのレッスンを受けに行った。


「この前のあんたのラフマニノフ良かったわぁ」

と渚さんは隣のピアノの椅子に座って満面の笑みで褒めてくれた。


勿論、伊能先生と渚さんはもちろんの事、山吹先生や今までお世話になった人たちをあのコンサートに招待させてもらっていた。


「ちゃんと亮平のピアノの音は響いていたし、オーケストラに負けていなかったわ。ホンマにええ音出しとったわぁ。オーケストラと初めてやるとは思えん音やったねぇ」

と渚さんにしては珍しくべた褒めに近いお言葉だった。


「ホンマに? 渚さんにそう言われたらホッとするわ」

プロのピアニストに褒められると素直に嬉しい。僕はそう言いながら楽譜の束をカバンから取り出すと楽譜台に立てかけた。


「あの曲はねぇ。体力要るからねえ」

と渚さんはしみじみとした表情で言った。


 その表情を見てふと気になった僕は

「ところで渚さんはこの曲演奏(や)ったことあんの?」

と自分が座った椅子の高さを調節しながら聞いた。


「うん。勿論。あるよ」

と、渚さんはさも当たり前の様に即答した。


「まさか、バレンタインの指揮で……とちゃうやろうなぁ?」

と僕は恐る恐る聞いた。


「ふふふ……そのまさかだよ」

と胸をそらして『ふん』と鼻を鳴らした。


「げげ!」

と僕はのけぞった。

流石世界中のオーケストラからお呼びがかかるピアニストだ。ダニーと演奏していたとしても不思議でも何でもない。

改めて僕は渚さんを見直した。


「どうだ! 恐れ入ったか!!」

と勝ち誇ったように渚さんは更にふんぞり返った。


「参りました」

僕は素直に降参した。


「それにしても亮平のピアノは、私にも『セルギイ大修道院の鐘楼』が目に浮かんだもん。何も考えていないように見える割には、そういうのをあんたは外さずに押さえるわよねえ……」

と渚さんは感心したように言った。


 もしかしたら渚さんは僕のピアノからロシアの大地とボルガ川の悠久の流れも感じてくれたのかもしれない。そうであれば僕はとても嬉しい。それは間違いなく僕が感じた情景だったから。しかし、やはり渚さんは素直に褒めてくれない。最後はどこか貶すのは如何なものかと思う。


「何も考えてない事はないねんけど……それなりには考えていると思うんやけど……」

と反論を試みてみたが、考えるよりも感じた事、僕が見えた神の音色をそのまま弾こうとしていたのは事実なので、あまり強く反論できない自分がいた。

なんせ僕は自分の見たい色鮮やかな景色を弾いているだけでもあるのだから。


 なので

「そうかな?」

と結局、僕は笑って誤魔化した。


「第二楽章はオーケストラとうまく合っていたけど、あんなにうねりがぴったり合うなんてね……見事だったわ」

渚さんは自らの経験と照らし合わせて話をしているようだった。

「あ、そこはダニーとオーケストラが合わせてくれたん。『好きに弾いていいから後は任せろ』って言われていたから」

その時の情景を思い出しながら僕は話した。


「そうなんや。流石ダニーやなぁ」


「渚さんの時はどうやたん?」


「私ん時かぁ……必死やったからなぁ……兎に角、弦楽器に押しつぶされないように弾くので精一杯やったような気がするなぁ。あんたみたいに余裕で弾けんかったわ」

と、渚さんは最後は思い出したくない過去を思い出したという風に少し顔をしかめながら笑った。


「余裕なんてなかったわ。足踏ん張ってたもん」

と僕が言うと渚さんは

「そうそう、そうやった。あんた*ルービンシュタインみたいに背筋ぴんと張っとったな」

と笑った。


「そうやったかも」

言われてみればそうかもしれない。思い当たる節が沢山あった。


 渚さんは笑って頷くと

「じゃあ、そろそろ始めよか」

と立ち上がって楽譜台に立てかけた楽譜を捲った。




*アルトゥール・ルービンシュタイン

ポーランド出身の偉大なるピアニスト。主にショパンの演奏で有名だがラフマニノフのピアノ協奏曲2番もアルバムを残している。

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