第265話 迷い
「で、全国一位のあんたは何を弾くん?」
冴子が嫌味を込めて聞いてきた。何故か右斜め上あたりからの上から目線を感じるのは、気のせいではないだろう。
「パルティータ 第二番」
「え? バッハ?」
冴子は驚いたように聞き返してきた。
パルティータとは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲した*クラヴィーアのための曲集の事である。
昨年の夏、オヤジの田舎で本家のピアノを弾いている時に『どこかでバッハを弾いてみたいなぁ』と思っていたのだが、ここにそれを実現するチャンスがやってきた。
「そうや」
僕は頷いた。
「六楽章全部?」
「うん。本当はロンドとカプリッチョさえ弾けたら満足やってんけど、全部弾いて良いって言われたから……遠慮なく」
「ホンマに図に乗っとるな……」
「そぉかぁ? 弾いてええって言われたら弾くやろ?」
「はいはい。全国一位は優遇されとるのぉ」
と冴子は突き放す様に言った。もうこの会話にも飽きたようだ。とても飽き性なお嬢様だ。
「へえ……バッハかぁ」
と冴子と違い梨香子は感心したように呟いた。彼女はまだこの話題に興味があるようだ。
「ホンマにねえ……ガラコンサートでバッハかぁ」
冴子も釣られて意外そうに呟いた。いやこの場合呆れたようにが正解か?
「あかんかぁ?」
僕は二人の顔を見比べながら聞き返した。少し心配になってきた。
「いや、あかん事はないけどなぁ。あんたの事やからショパンとか場違いなモーツアルトのピアノソナタ八番とかもっと誰でも知ってそうな曲を選ぶと思ってたわ。ここでパルティータを持ってくるとは思わんかったわぁ。バロックとはねえ……」
冴子は予想が外れて残念そうだった。
「期待に応えられなくて悪かったな」
と言いつつも僕は冴子の予想を裏切った選曲ができてそこは少し嬉しかった。
その時、話の流れをぶった切る様に
「ねえ、藤崎君はこのままピアノの道に進むんでしょ?」
梨香子が真剣な表情で僕に聞いてきた。
「え? あ、うん。そのつもりやけど……突然どうしたん?」
その質問が唐突だったのとあまりにも梨香子の表情が真剣だったので僕は驚きながら答えた。
彼女に僕がピアニストを目指している事を言った覚えは無かった。おおかた、冴子にでも聞いたのだろう。
「いえ、別に……」
梨香子は我に返ったような表情で首を振った。
「ふ~ん。そう言う自分は?」
と僕が聞き返すと
「え? 私? う~ん……」
と梨香子は煮え切らない返事だった。僕に聞き返されるとは予想していなかったようだ。
「なんや? まだ決めてへんのや?」
「うん」
梨香子は視線を落としながら頷いた。そして大きく息を吸い込みながら、顔を上げて天井を見上げたが視点が定まっていなかった。
何か言いたい事がありそうで躊躇っている……そんな感じがしていた。
「なんか迷ってんの?」
冴子がそんな梨香子の戸惑いなどお構いなしに聞いた。こういう場合、冴子はずけずけと平気で何でも聞ける女だ。
「うん……私ね……実はこのコンクールに腕試しで出たんだけど、まさか全国三位とかになるとは思わなかったの」
梨香子は冴子の勢いに押されたかのように話し出したが、また考え込むように口をつぐんだ。
彼女自身どう説明して良いのか分かっていないようだった。
冴子が梨香子の言葉を受け継ぐように
「でも、三位になってしまったのでピアニストとか目指そうかなって事なん?」
と聞いた。
こいつはいつもせっかちだ。中途半端で話が終わるのは許せないタイプだったりする。
しかも何故か冴子のそんな質問に『答えないわけにはいかない』という思わせてしまう威圧感がある。
梨香子は少し考えてから
「それもちょっと違うな。もし一位だったら自惚れてそう思ったかもしれない。でも三位だった……だから迷っているの」
と言った。
「踏ん切りをつけるのには中途半端な成績やったって事?」
と冴子は聞いた。
「うん。判り易く言えばそう言う事になるかな。結果自体はとっても嬉しい事なんだけど……」
と伏し目がちに最後は呟くような小さな声で言った。
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