第206話 上京

 全国大会は東京で開催される。それなりに知名度の高い全国規模のコンクールだ。僕とっては久しぶりの上京になる。


 同じ日に出場する僕と冴子は授業が終わると、その足で開港したばかりの神戸空港へ向かった。

新幹線で行くつもりだったのだが、今年の初めに神戸空港が開港したのを思い出して見学も兼ねて新しい空港に行ってみたかった。この僕の提案に冴子も乗った。駅までは冴子のお父さんがわざわざ自ら車を運転して送ってくれた。


 空港に渡る橋の上で冴子のお父さんが

「こじんまりした空港やな」

とひとこと言った。橋の上から全景が見渡せるようなかわいい空港だった。


その言葉に頷きながらも、僕は新しいこの空港をワクワクしながら眺めていた。

自分の住んでいる街に空港があるなんてちょっと素敵だ。そして何よりも空港から旅客機が飛び立っていく姿は何度見ても飽きない。


「なんか子供みたいに、はしゃいでない?」

冴子が覚めた声で僕に声を掛けてきた。


「そんな事ないわ。でもちょっと楽しみやな」

冴子に見透かされたような気がしたが、僕は正直に思った事を口に出した。


「あんたは子供か?」

と予想通りの見下した言葉が冴子の口がら飛び出した。


「子供で悪かったな」


「ふん!」


「ははは。冴子。男の子はそういうもんや」

と冴子のお父さんがハンドルを切りながら冴子に行った。


車は空港の駐車場に入って行った。




 僕と冴子が搭乗ゲートをくぐる時に

「お父さんは今日の最終便で東京へ行くからな」

と冴子のお父さんは言っていたが、冴子の運動会に一度も来たことが無かった父親とは到底思えない台詞だ。

オヤジや安藤さんなら『日ごろの家族不幸を悔い改めたか!?』とかツッコんでいたことだろう。


 冴子は

「うん分かった」

と素っ気ない返事をしていたが、飛行機に乗ってから

「お父さんが見に来てくれるって……本当かなぁ」

と窓の外を見ながら呟いていた。


 僕には喜びの感情が表に出ないように必死に我慢しているようにしか見えなかった。もっと素直に喜べば良いものを……とは思ったが口には出さずにいた。


 でもそんな冴子を見て僕はとても微笑ましかった。本当に冴子は不器用だが分かり易い奴だ。

本人は絶対にそう思ってはいないと思うが……。



 一時間程度のフライトで羽田空港に着くと、冴子のお父さんの部下の女性が冴子を迎えに来ていた。冴子とは顔見知りだったようで、冴子の方が先に彼女を見つけて声を掛けていた。


 彼女は都内にある別宅のマンションに泊まる事になっていた。そのマンションは冴子のお父さんが東京で仕事をする時に滞在するマンションで、勿論この日の為にかどうかは知らないがピアノも用意されていた。

ブルジョア階級は本当になんでもありだな。


「送るけど?」

と冴子に言われたが

「ええわ。モノレールにも乗ってみたいし」

と言って僕は冴子とは空港で別れて一人で宿泊場所に向かう事にした。


 実は鈴原さんからも安藤さんの店で「俺も後で合流するから、うちのマンションに一緒に泊まっても良いぞ」と声を掛けられていたが、オヤジに「滅多にない親子水入らずの機会に余計な水を差すな」と言われ、僕も「それもそうだ」と猛烈に納得して丁寧にお断りした。

それ位の事はオヤジに言われなくても当然僕にも分かる。



 僕が向かったのは伊能先生の教え子で、今は藝大でピアノを教えている山吹健吾先生の自宅だった。

今まで何度かこの山吹先生が神戸に来た時に僕のピアノを見て事もあったし、今回は伊能先生からの勧めで泊めてもらう事になった。


 モノレールで浜松町まで出てからJRに乗り換えて大井町の駅で僕は降りた。



 山吹先生は藝大で教える傍らピアニストとしても活躍している。

その先生が駅の改札口で待ってくれていた。長身の先生はすぐに見つける事が出来た。僕は改札を出ると迷わずまっすぐに先生の元へ向かった。


「亮平君。ようこそ」

と両手を広げ笑顔で僕を迎えてくれた。

「わざわざどうもありがとうございます」

僕は少し恐縮しながら頭を下げた。


 前もって『改札口で待つ』とは言われていたが、いざ待たれてみると案外申し訳ない気持ちになった。


そんな僕とは対照的にとても愉快そうに先生は

「いやいや、僕は嬉しいんだよ。やっと君がこのステージに立ってくれたのが」

と言って僕が肩から下げていたデイバックを取り上げた。

「あ、良いですよ。自分で持ちますから」


「大丈夫、大丈夫。君は気にしなくて良いから。明日の演奏の事だけ考えていてくれたまえ」

とにこやかに笑いながら僕のバックを自分の肩にかけた。


「あ、ありがとうございます……」


「でも、やっと本気になってなってくれたみたいだね」


「ええ。まあ、なんというか……」

僕は言葉を濁した。なんて説明していいのか迷っていた。


「本当に僕はこの日が来るのを待っていたんだよ。君のピアノはとても面白い。だから君がこのコンクールの為に上京するって伊能先生に聞いた時は迷わず『うちで面倒見させてください』ってお願いしたんだ」


「そうなんですか……ありがとうございます。ところで先生、助教授になられたそうですね。おめでとうございます」


「あ? 聞いた? そうなんだよ。ありがとう」

と言ってなんだか照れたように頭を掻いた。


「ええ。伊能先生から聞きました」


「そうかぁ」

そう言って先生は空を見上げてまた頭を掻いて

「伊能先生にはお世話になりぱなしだ……」

とひと言だけ言った。

 

 僕はこの先生が好きだ。とても実力も実績もあるのにいつも謙虚な姿勢で音楽に向かい合っている。

性格がそのままにじみ出るような優しい音を響かせる人だった。

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