第273話 愛の悲しみ
「うん。フリッツ・クライスラーって知っている?」
彩音さんは、作曲家でもあるオーストリア出身の有名なヴァイオリニストの名前を挙げた。ヴァイオリンを習っている者でこの名前を知らない人間を探す方が難しい。
「勿論知ってますよ。『愛の悲しみ』でもやるんですか?」
「あ! 流石ね。そうよ。『愛の喜び』とセットでやりたいんだけど良い?」
彩音さんは僕がフリッツ・クライスラーの名前だけで曲目を当てたので驚いていた。
代表作の一つだから当たってもおかしくはないが、彩音さんにとっては驚きだったようだ。
「全然構いませんよ。その曲なら冴子ともやったことがあります」
僕の返事を聞いて
「あ、そうなんだ、良かったぁ」
と安心したように彩音さんは胸をなでおろした。僕がクライスラーを知らないと本気で思っていたんだろうか? まあ、ヴァイオリンを弾いていなかったら知らなかっただろうけど。
「じゃあ、これ渡しておくから、今日の放課後音合わせできる?」
と彩音さんは持っていたクリアファイルから楽譜を取り出すと僕に手渡した。
僕はざっと楽譜に目を通すと
「はい。今日は全体練習無かったはずですから大丈夫です」
と応えた。
彩音さんはせっかちだ。でも、この曲なら何度も弾いた事があるので大丈夫だ。それなりにまとめることはできる。
「良かった。じゃあ、また後でね」
そう言うと彩音さんはさっさと踵を返して出口に向かって歩いて行った。
僕はその後姿を見つめながら、心臓の鼓動を抑え込むのに苦労していた。
そして彩音さんが出て行ったことを確認してから僕は一人ピアノの前でガッツポーズをして叫んだ。
「よっしゃぁ!! 彩音さんと一緒に演奏できる!」
その日の放課後、僕が一人で音楽室でピアノを弾いて待っていると彩音さんがやってきた。
勿論弾いていたのは彩音さんから出された『愛』の課題曲だ。
「他の人は?」
「哲也と拓哉はパート練習に行っちゃいました」
「そっかぁ。藤崎君のところはええの?」
と彩音さんはぬけぬけと言いながらヴァイオリンケースを机の上に置いた。
「はい。心優しいパートリーダーの許しを貰っていますから……」
と僕は彩音さんの顔を大げさに凝視して言った。
「あら、物分かりの良いパートリーダーで良かったやん」
と白々しく応えながら彩音さんは笑った。
「はい。代わりに今日は冴子が仕切っていますけどね。リーダー」
と僕も笑いながら応えた。
パートリーダーでありコンマスでもある彩音さんは
「そうね。あの子に任せとったら大丈夫やね」
と言うと僕の言葉なんか全く気にも止めるそぶりもなく、ピアノの譜面台に広げた楽譜に目をやった。
そして
「準備はもうええみたいやね」
と聞いてきた。彩音さんの気持ちはもう完全に演奏者に切り替わっていた。
「はい。大丈夫です」
僕は自信をもって応えた。と言っても二度ほどさらえた程度にしか練習していなかったが、ここで『もう少し練習させてくれ』とは死んでも言いたくなかった。実際、それなりには弾けるだろうという自信もあった。
「流石ね」
彩音さんはひとことそう言うと、ケースからヴァイオリンを取りだした。そしてゆっくりと肩に乗せチューニングを始めた。
「音要ります?」
一応、僕は聞いた。
「うん? そうやね……お願いするわ」
彩音さんはやはりどっちでも良さげな返事だった。
僕はピアノの鍵盤をポンと弾いた。
絶対音階を持っている彩音さんは、僕の音が無くても音合わせはできる。予想通りすぐに寸分の狂いもなく同じ音を返してきた。
彩音さんが呼吸を整える。
一瞬の間。二人の空気が合う瞬間。
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