第201話勇者”ピアニスト”
「お疲れさん」
と僕は声を冴子に声を掛けた。
冴子は僕の顔を見て一瞬微笑んだが、そのまま控室の折りたたみ椅子の上に座り込んだ。
「終わったぁ!!」
その言葉に冴子の偽らざる気持ちが全て込められていたように思う。
冴子の顔は満足感で満ち溢れ、頬が少し赤みを帯びていた。その表情を見ても今回の演奏が本人にとっても会心の出来であったことがうかがい知れた。
冴子が演奏を終えてこんなにも無防備に自分の感情をさらけ出しているのを僕は初めて見た。
いつもの冴子なら黙って椅子に座ってしばらくは何も語らずに楽譜を見直す程度で、こういう感情の吐露的なセリフは吐いたりはしないのだが彼女の中でも今回はどうも違うようだ。
僕も今回の冴子の演奏は今までの彼女演奏とは違い、単なる技術だけではない音の厚みというか冴子の魂の叫びのようなものを演奏から感じていた。
「まだ、全国があるやろ?」
敢えて僕はそう軽口をたたいた。
「ふん! 分かっているわよ。そんな事は」
とセリフはいつもの冴子だったが表情は明らかに笑っていた。
演奏が終わって笑顔の冴子なんて初めて見た。
冴子は自分の指先を見つめながら、
「私にもまだ弾ける。まだ追い込める。まだまだ上る事が出来るわ」
と自分に言い聞かせるように呟いた。間違ってもこれが最後のピアノコンクールの奴が言うセリフではない。
なのに、何故か違和感なく僕はそのセリフを聞いていた。冴子らしいセリフだと。
冴子は思い出したように
「宏美は聞いてくれていたかな?」
と僕を見上げて聞いてきた。冴子の表情が一瞬で和らいだ。
「そりゃ聞いてるやろう。寝とったら知らんけど」
「う~ん。あの子の場合それがあり得るかもしれんからなぁ……」
と冴子は本気で心配していたが、それは僕も同意だった。
「これで全部出し切ったと思ってたんやけど、まだ出せるような気がする。なんでやろうな?」
と冴子が聞いてきた。
「まだ出し切ってないからやろ」
「そのまんまやんか!」
と冴子は僕を睨んで言った。確かにオウム返しだわ。
「まあ、それだけお前の腕が上がったという事なんやろう」
と僕は笑いながら言った。
「そうなんかな」
「多分な」
「相変わらず、ええ加減やなぁ」
「まあな。今頃気が付いたか?」
冴子はそれを聞くと鼻で軽く笑った。僕がええ加減な奴である事は冴子が一番知っている。
「藤崎 亮平さん」
今度は僕の名前が呼ばれた。もうそんな時間だった。
舞台のそででスタンバイしなくてはならない。
「じゃあ、行ってくるわ」
「うん。行ってらっしゃい」
と言って冴子は手の平を僕に向けた。
僕はその手にハイタッチをしてから舞台そでに向かった。
なんだか宏美が言いそうなセリフだなと思いながら僕は歩いた。
「亮ちゃん!!」
と冴子の声が聞こえたが僕は振り向かずに右腕だけを軽く差し上げた。
ここから舞台袖にたどり着くまでに僕は勇者”ピアニスト”にならなくてはならない。
今日も見事にコンプリートする。
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