第200話 ラフマニノフ前奏曲 嬰ハ短調『鐘』

 二曲目はラフマニノフ前奏曲 嬰ハ短調『鐘』だった。

フォルティッシモによる3つの開始和音が鳴り響。

クレムリン宮殿の鐘の音か、ロシア正教会の鐘の音なのか、まさに今ここにロシアの半音階がホールの天井高く響いている。


 続く一瞬の空白が聴衆の意識を冴子のピアノに引き付ける。憂鬱なピアニッシモな嬰ハ短調の音の粒が静かにホールの床を這うように流れる。

ホールは冴子のピアノの音以外、寂(せき)として声もなくひっそりと静まり返っている。観客は冴子の音に引き込まれている。


まさにこれはいつもの冴子の音だ。


 そして何度も鐘が鳴り響く。

冴子の苛立ち、そしていつもの激しい感情がそのままこの演奏に音の粒に伝わっていた。


――冴子らしい、感情をストレートに乗せたエグイ音を出しとんな――


 そう冴子らしい音だった。だからと言って勝手な解釈で弾いている訳ではなかった。

冴子の音は一音一音が力強くはっきりとホールに響いていた。冴子らしく音の粒にちゃんとメリハリがあった。


 僕の口元に思わず笑みが浮かんだ。本当にまとわりつくような音の粒だ。冴子の性格そのものだわ。


 しかし……今までの彼女は感情の起伏が激しい音は出していたが、今ここで弾いているような自分をさらけ出して感情をそのままピアノにぶつけるような音を出してはいなかったはずだ。


 確かに冴子の音だが、その陰で何か別の誰かの音が見えるようだった。とても不思議な気持ちだった。


 それはそれとして、ここの*アジタートは冴子の為にあると言っても良い。そんな気にさせる程冴子の演奏は自然でそして聞いている人をぐいぐいと引き付ける心揺さぶる音色だった。


――こんな弾き方ができるのか……冴子はこういう音が出せるんや――


 僕の知っている冴子の音はこれほど感情をさらけ出すようものではなかったはずなのだが、今このホールに飛び交う音の粒は間違いなく冴子の音だった。冴子の魂かもしれない。そしてその音色は僕を挑発する。


――コンクールのための音なんか聞きとぉないわ。亮平の音を、あんたの本気を聞かせて――


僕には冴子の声がそういう風に聞こえていた。


 コンクールで冴子の挑戦を受けたと感じた事はこれまで一度もなかった。そう、本人はどう思って弾いていたかは知らないが、僕はそれを感じた事が無かった。


 しかし今は違う。今日の冴子は感情や想いを何の躊躇もなく音に乗せてきた。こんな冴子の音色を聞いた事が無かった。

最後の最後に冴子は僕に本気で勝負を挑んできた。彼女は本気で僕に勝ってヴァイオリンに転向するつもりだ。それがひしひしと伝わって来た。


――このまま冴子に勝ち逃げなんかさせるかい!――


と僕は冴子が響き鳴らす鐘の音を聞きながら心の中で叫んだ。


 この二曲は、言ってみれば冴子の決意の表れだったのだろう。そして僕への明らかな挑戦だ……いや、そんな良いモノではないな、彼女の場合は『当てこすり』的な何かかもしれない。まあ、それはそれで僕にとって嬉しい驚きである事に変わりはなかった。


――今まで、亮平!あんたの背中を見てうちはピアノを弾いてきた。でも、これが最後や。これでもう二度とあんたの背中なんか見たりせえへん。追いかけたりせえへん。だから最後にあんたが本気で弾きたくなるような音を出したる。今回はうちが弾き逃げしたる――


――本気か? 冴子――


――当たり前や! そのためにうちはここにおるんや――


 冴子はあくまでも強気でそして自分の全てをぶつけてピアノに向かっていた。

音の粒は嘘をつかない。弾き手の感情をそのまま乗せてホールを埋め尽くしている。


 それにしてもこんな演奏をする彼女の音は、ファイナルにはどんな演奏を聞かせてくれるのだろうかと、今ここにいる全ての人に期待抱かせるには充分な演奏でもあった。


 それほどこの二曲の演奏はまるで今が冴子のコンサートであるかのような錯覚さえ生む出来栄えだった。聴衆が見事なまでに冴子の音に心を捕らわれているのが分かった。


――このまま辞めずにピアノを弾いていたらええのに。またこうやって一緒に弾きたいんやけどなぁ――


と僕はこの音の粒を感じながらそう思った。


 やがて冴子は鍵盤に指を深く沈めると、余韻を楽しむかのように黙って指先を見つめていた。静かな安息が訪れた。


 冴子がゆっくりと鍵盤から指を離した瞬間ホールから何故か安堵のため息が漏れたような気がした。

それほどの緊張感をもって冴子はこの曲を弾き切った。


――亮平のばかたれ――


 冴子が顔を上げると一斉の拍手が鳴り響いた。

冴子は立ち上がってホールをゆっくりと眺めると客席にお辞儀をして舞台から降りた。

僕も慌ててホールから出て控室で冴子を待った。

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