第106話 ピアノソナタ第8番

 僕がピアノソナタ第八番を弾き出すと彼女は膝の上の楽譜に両手を置いて目をつぶり、音の粒に身をゆだねているように聞いていた。

とても気持ち良さそうだ。僕はその姿を横目で見て少し嬉しくなった。自己嫌悪はどこに行った……というかもうどうでもよくなった。この子の流れに付き合ってみようと思った。


 この曲はどちらかといえば悲しい曲だが冴子も好きなメロディアスな曲だった。もちろん僕もこのモーツァルトが珍しく短調で書いたピアノソナタが好きだった。


この曲は母アンナがパリで死んで、悲しみの中でモーツァルトが作曲した曲だ。

第一楽章はイ短調で絶え間なく並ぶ十六音符が悲壮感のある主題に緊張感を与えている。


 僕はこの第一楽章を弾くとモーツアルトの母親に対する愛の深さをいつも感じる。そして後半は待ち受ける彼女の不幸に震えそうになる。


 ああ、この曲はモーツアルトのこの時期の辛い思いだけの為に描かれている……そんな気がしてならない曲だ。


 それなのに第一楽章は「maestoso(堂々と)」と指示されている。そう、母親アンナの死は悲しい出来事ではあったが、母親自身の人生全てが不幸に満ち溢れて訳ではない。モーツアルトは第一楽章でそれをちゃんと主張している。


 僕はいつもより軽めに乾いたタッチでこの曲を弾いた。

このうららかな午後のこの明るい音楽室の雰囲気に少しでも合わそうとしたのだが、それは無意味な努力だったかもしれない。


 僕は第一楽章を弾くとどうしても続けて第二楽章・第三楽章と最後まで弾きたくなってしまう。第一楽章だけではどうしても中途半端だ。モーツァルトが母親の死の悲しみを乗り越え、生きていく力を取り戻す……そんな情景を見る事もなく終わてしまう。そう、このままでは悲しいだけで終わってしまうではないか。モヤモヤした気持ちが残ってしまう。


だから、ついでに第二楽章も弾こうかと迷いながら、僕は第一楽章を弾き終えた。


 その瞬間

「あ~~!! ヴァイオリンソナタ第二十八番 ホ短調 K.304やんかぁ。こんな楽譜があるやんかぁ」

彼女は急に叫んだ。

モーツァルトへの葛藤はこの一言で消し飛んだ。


――お前はちゃんと聞いていたんか?――


「ねえ? これって今でも弾けるん?」


 有無を言わさぬ勢いに簡単に負けた僕は、彼女が差し出した楽譜を手に取った。音の粒に身を任せているのかと思っていたら彼女は僕のピアノを聞きながら他の楽譜を漁っていた様だ。


 僕は彼女から受け取った楽譜に目を落とした。

「こんな楽譜が混じっていたんや……」

この曲は中学三年生の時に『何事も経験よ』と、習っていたピアノ教室の先生に言われて紹介されたヴァイオリニストとアンサンブルした時の楽譜だ。


――これか……これならまだ弾けるか――


僕は楽譜にざっと目を通してからそれを譜面板に置いた。


 またもや短調の曲だ。それも同じく母アンナが無くなった頃のモーツァルトの悲しみとやり場のない運命への怒りと苦しみをぶちまけたような曲だ。この子はそれを知ってワザと選んでいるのか?


 さっき弾いたピアノソナタにはまだ悲しみから這い上がろうとするモーツァルトの強い意志も感じられたが、この曲にはそれが全くない。ただひたすら悲しい。この暗い曲を連発でリクエストするこいつは本当に根暗な女の子なんだと僕はその時思った。


 さっきからこのうららかな午後の音楽室の雰囲気に似つかわしくない曲ばかり弾かされている気がする。


 しかしだ。確かにこの曲は「ヴァイオリン伴奏のクラヴサンまたはピアノのソナタ」でピアノがメインの曲ではあるが、ヴァイオリン無しで弾くのはちと寂しい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る