第107話 ヴァイオリンソナタ第21番


「これって一応ヴァイオリンソナタなんやけど……」

と言いかけた僕の視線の先には、既に左肩にヴァイオリンを乗っけている女子高生がいた。

まるでさっきからその肩に乗っかていたかのように、当たり前にそれは存在していた。


 僕と視線が合うと彼女はまだ春なのに、夏の日差しが似合いそうな笑顔で音を要求した。

もう何も言えなかった。僕は蛇に魅入られた蛙のように彼女の言いなりだった。

僕は無言で鍵盤をはじいて音を出した。

彼女はA線をチューニングし始めた。


 そうやって慣れた手つきで順番に四弦の調弦が終わると今度は二弦づつ調律をはじめ、満足した音が取れると僕の顔を見て頷いた。


 冒頭はピアノのオクターヴとヴァイオリンの力強いユニゾンで始まる。

彼女の音は重い。見た目を裏切る落ち着いた音だ。こんな音が出せるんだ。僕は少なからず驚いていた。と、同時に少し重すぎないか? とも思ったが、弾いているうちに案外これの方がしっくりくるような気がしてきた。


 しかし昼休みからこの重く沈んだモーツァルトの心情を奏でるってどうなんだろう?

どうせならヴァイオリンソナタ第17番 ハ長調 K.296を選べばいいのに……今弾いている楽譜より先に目につくはずなのに……春らしくて良いのに……とか思いながら僕の指は鍵盤の上を飛び跳ねていた。


 第一楽章はピアノがメインだ。

彼女のヴァイオリンが奏でる低音がいい具合に響いてくれて、この曲のバランスを巧くとってくれている。


悲しみも薄れたと思いきや……やっぱり悲しいんです僕……と畳みかけるような旋律。

良い曲なんだが春先の学校の音楽室で弾く曲か? とか思いながら弾いていたのもつかの間、彼女のヴァイオリンの音は落ち着いた音を響かせ、そして僕の音をサポートしてくれるので、今ここがうららかな午後の音楽室である事を忘れてしまっていた。


 それにしてもなんて弾きやすいヴァイオリンの音だ。演奏者としては心地よい音色だ。僕は演奏に没頭した。


 独りで弾くのとは違う感情が沸き上がる。


その少しいつもと違う心地よい違和感を感じながら第二楽章のメヌエットへと入っていった。

切ないピアノの音色の後に続く可憐で儚(はかな)いヴァイオリンの音色がモーツアルトの心の叫びのように聞こえる。さらに悲しさが増す。


 ああ、なんてモーツァルトの心は繊細なんだ。今更なんだが、彼女のヴァイオリンを聞いていると本当にそれが伝わってくる。


 いつものようにピアノとの会話ではなく、伴奏者との会話は違う意味で楽しい。

彼女が今感じている音色を僕が受け取りそれを返す。この曲のピアノは単なる伴奏者ではない。彼女と奏でるのはそれなりに緊張するが新鮮な感覚だった。


楽しい時間はあっという間に過ぎる。


 彼女が最後の音を響かせ、モーツァルトの悲しみを弾き切った弓は弦から離れた。


 僕は彼女の顔を始めてじっくりと見た。

彼女の頬はほんのりと赤みがかっているようにも見えた。

「う~ん。良い。とっても良い。最高に良い」

彼女はヴァイオリンを肩から下ろすと目を見開いてそう叫んだ。

弓が軽く震えている……。


 彼女は僕の顔を凝視すると

「ねえ、今まで結構アンサンブルとかしてたん?」

と聞いてきた。


「いや。そんなにやってへん。この曲も昔に課題でやった曲や」


「そうなんや。でも慣れてたやん」


「そうでもないけど……」

彼女のヴァイオリンに引っ張られたというのが僕の本音だった。


「モーツァルト好き?」

彼女は聞いてきた。

「嫌いではない」


「そっかぁ」

彼女は笑いながら軽くのけぞった。


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