第108話 瑞穂
「ところで……あんた、藤崎亮平くんやんなぁ」
とその子は唐突に僕の名前を聞いてきた。
――先に自分の名前を名乗らんかい!――
と思いながら
「うん。そうやけど……自分は?」
と僕は聞き返した。
「あ、私は結城瑞穂。冴子と同じクラスやねん」
「冴子と?」
「うん」
とその瑞穂と名乗る女の子は軽く頷いた。
「ほな、私学文系かぁ……音大とか目指すん?」
彼女の弾くヴァイオリンの音を聞いたら、僕でなくてもそう聞くだろう。
「……うん。まあね。で、藤崎くん、この頃いつも昼間、音楽室でピアノ弾いているでしょ?」
「うん。この頃弾いてるな」
と応えながらも、軽く僕の問いはいなされた様な気がしていた。
「気になってたん。なんて音でピアノを弾いているんやといつも思っていたん。で、冴子に何気に『誰が弾いているんだろうね?』って聞いたら、藤崎君が弾いているって教えてくれたん」
彼女は楽しそうに話をする。そして少し含みのある笑いを付け足した。
どうせ冴子の事だから「ああ、あれは亮平のバカが暇つぶしに弾いているだけや」とか言ったに違いない。
そう思いながらも僕は当り障りのない返事しかできなかった。
「そうなんや……」
「だから一度、一緒に弾いてみたかったんやけど、本当に今日一緒に弾けるとは思ってもいなかったからめっちゃ感動してんねん」
「そりゃどうも」
ちゃんとヴァイオリンまで用意していたくせに……やる気満々やんか……と僕は思ったが口には出さなかった。
「思った以上にいい感じやった。ホンマに気持ちよく弾けたわ。ね、また一緒に弾いてくれる?」
「え?」
僕は驚いた……いや戸惑った。そんな事を言われると思ってもいなかったから。
「同じ高校にこんなピアノを弾ける子がおるなんて思わんかったから、めっちゃ嬉しいねん。ね、だからお願い。また一緒に弾いて。ね」
結城瑞穂は薬師寺の弥勒菩薩像にお願いするように手を合わせた。
「それとも受験の邪魔かな?」
そう言いながら有無を言わせない迫力で僕の目の前に顔を近づけてきた。
彼女の小悪魔的な笑いは軽く石鹸の匂いがした。
「いや、そんな事はないけど……それも冴子に聞いたん?」
「うん。藝大目指しているって」
「そうかぁ……」
冴子は一体どこまで話をしたんだ?……まあ、言われて困ることは全くないが。
「でも本当に大丈夫?」
今度はちょっと心配そうに聞いてきた。
「ああ、気にせんでええよ」
「やったぁ!」
彼女は嬉しそうに軽く飛び上がって喜びを表現していた。
冴子なら「ふん!」と鼻を鳴らすところだなと、僕は冴子のいつもの憎たらしい表情を思い浮かべた。
「まあ、たまにはええよ。気分転換にもなるし」
僕はそう答えたが、本当は独りで弾くのとは違った……今さっき感じたような新鮮な感覚をまた味わいたかった。
それに彼女の奏でるヴァイオリンの音はとても魅力的で、僕も出来るならまた一緒に弾きたいと思っていた。
「ありがとう」
彼女は嬉しそうに笑った。そして軽くほっとしたようなため息をついた。
「自分も音大とか目指してんのにええんか?」
そう、彼女と僕は立場は一緒だ。ついでに冴子も同じだが……。
「うん。私は大丈夫……だと思う」
彼女が笑いながら言ったその時、チャイムが鳴った。
彼女の笑顔は小さな驚きの表情に変わった。
そして
「あ、もう昼休み終わるやん」
と残念そうな表情に変わった。
本当に表情がコロコロ変わる女の子だ。
「早よ教室に戻らんとな」
僕はそう声を掛けると慌てて楽譜をしまい、彼女と一緒に音楽室を後にした。
次の日もヴァイオリンを持て彼女が音楽室に来るのかと思てたが、それ以来、彼女は昼休みに音楽室に来る事は無かった。
結城瑞穂の出会いの事が記憶から薄れ始めた頃、放課後の教室でクラスメイト数人と無駄話をしていると校舎の中庭辺りから放課後色に染められたヴァイオリンの音が教室に入ってきた。
僕は友人たちとの会話もそこそこにその音色に聞き入っていた。
「おい、亮平。聞いてるか?」
と声を掛けてきたのは立花哲也だった。
「ああ、聴いてる」
「ほんまか? なんかぼーとしてへんか?」
「いや、ちゃんと聴いてる。これは『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ第二番ニ短調』や」
「はあ?……誰もそんな事聞いてへんぞ……って、今外から聞こえとうヴァイオリンか?」
僕はハッと我に返った。
「あ、ゴメンゴメン。思わずヴァイオリンの音色を真剣に聞いてもたわ」
僕は慌てて哲也に謝った。
「ふ~ん。お前でも聞き惚れるような音なんやなぁ?」
彼は僕がピアノを弾いている事を知っている。彼自身も何か楽器を弾いているような事を言っていたような気がするが覚えていない。
「うん。巧いで。高校生とは思えん巧さやな」
「ふ~ん。そうなんやぁ。でも高校生のお前が言うなって感じやけどな」
哲也は口元にシニカルな笑いを浮かべて言った。
僕は彼のこの笑い方が嫌いではない。
「まあな」
そう言いながら哲也は僕と一緒にその夕暮れの校舎に響くヴァイオリンの音を聞いていた。
とっても綺麗な澄んだ音が夕日の校舎に溶け込んでいた。
それは繊細で少し寂しい、もの悲しい色が溶け込んだ音だった。
この音は結城瑞穂の音に違いない……僕はそう確信していた。
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