グランドピアノがやってきた日

第287話書斎

 それは二月のこの時期にしては寒さも緩んだ過ごしやすい日の事だった。

学校帰りのピアノのレッスンを終えて帰宅すると、珍しくオフクロが玄関で待っていた。


――なんで?――


と一瞬驚いたが、オフクロの表情は明るい。悪い予感はしなかったが、何故ここでオフクロが待っていたのかは全く思いもつかなかった。


「どないしたん?」

と玄関ドアを閉めるのも忘れかけてオフクロに聞いた。


「まあ、その部屋を覗いてみ」

と意味ありげな笑顔を見せ、玄関わきの部屋を指さした。ここはオフクロがたまに仕事部屋として使っている部屋だった。


「なんなんや? 一体?」


 訳が分からないまま部屋の扉を開けると、僕の目に鎮座しているグランドピアノの姿が飛び込んできた。

屋根が開いた状態で部屋の中にたたずむグランドピアノ。

オフクロが使っていたデスクはどこへ行った? 他の家具は? 本棚は?


目の前の場景を理解するのに少し時間が掛かった。


「え? これどないしたん?」

僕は再び驚いてオフクロに聞いた。


「あんたのお父さんが買ってくれたんや」

とオフクロは嬉しそうな表情で言った。


「え? 父さんが……」

 僕の脳裏にクリスマスコンサートでのヴァレンタインのひとことが蘇った。


『あなたはもう少しグランドピアノに慣れた方がよい』


その時はオヤジも一緒にその言葉を聞いていた。


――そうかぁ……オヤジは覚えていたんかぁ?――


 それでも

「なんで父さんが?」

と僕はオフクロに聞いた。


「うん、『グランドピアノを弾いてもええ時期や』とか言うとったけど」


「そうかぁ……でもなにが『ええ時期や』なんや?」

 そう言えばオヤジもヴァレンタインに言われるまでもなく、『同じ事を思っていた』とか言い訳がましい事を言っていたな。


「なんか、ダニーに指摘されて悔しがっとったみたいやけど、あんたなんか知っとぉ?」


 やっぱり先にヴァレンタインに指摘されたのが、よほど悔しかったのだろう……だからと言って速攻でグランドピアノを買うものだろうか?


 そんな事を考えながらも

「うん。この前の冴子の家でやったクリスマスコンサートの時に、ヴァレンタインに『グランドピアノに慣れておくべきだ』みたいな事を言われた」

と僕はその時の事をオフクロに話した。もちろんその場にオヤジがいた事もちゃんと告げた。


「だからかぁ……ホンマにお父さんらしいわ」

と言ってオフクロは笑った。


「でも、この部屋をピアノの練習部屋にしてええの? この部屋は母さんの仕事部屋とちゃうの?」

と僕が聞くと


「あ、全然かまわへんわ。元々この部屋はあんたのお父さんの書斎やったんやから」

とオフクロはあっさりと応えた。僕が拍子抜けするほどあっけらかんと言った。


「え? そうなん?」

 初耳である。

この部屋がオヤジの書斎であったなんて今の今まで全く知らなかった。オフクロの態度よりも、そちらの方が驚きだった。

 もしかしたら僕が気が付かないだけで、この家には残置物の様なオヤジの痕跡が案外あるのかもしれない。


「そうやで。だから今ではどちらかと言えば余っていた部屋やからね」

とオフクロはそう言うと部屋の奥の窓に目をやった。そう言われればそうだ。

生まれた時からこの家に住んでいたから何も感じなかったが、親子二人でこの4LDKの間取りは確かに広すぎる。


「離婚せえへんかったら、今でもここはオヤジの部屋やったのにって?」

と思った事がそのまま口から滑らかに出て来た。

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