第288話 初めてのプレゼント
「ううん。どうやろかぁ?……どっちにしろこの部屋にはピアノがよく似合うなって思ってたん」
とオフクロは僕の言葉を気にする事もなく軽く首を振って笑った。不用意なひとことを発したかと思ったが、オフクロにとってオヤジの話はもう何のわだかまりもないことのようだ。
――それにしても『どっちにしろ』ってどういうことや?――
とその言葉が少し引っかかったが、確かにオフクロが言う通り10畳ほどのフローリングのこの部屋に、グランドピアノが良いバランスで納まっていた。
「兎に角、あんたはリビングで弾くより、ちゃんとした個室で弾く方が集中できるでしょ?」
とオフクロは仕事部屋に使っていたこの部屋には何の未練もないようだった。
「うん、そりゃそうやけど……で、前のピアノはどうしたん?」
と僕はリビングに置いてあったピアノが気になった。ついでにレーシーの事も気になったが、あのかわいらしい妖精に関してはそれほど心配はしてなかった。
「あのピアノは店の方に持って行こうと思っとうねんけど……ちょうど欲しかったん。良い感じで家具が引き立つと思うわ。持って行ってもよいでしょ?」
「え? そうなんや……まあ、全然構わへんけど……」
どうやら今まで僕が使っていたピアノはオフクロの店舗……と言っても店舗兼事務所の片隅で、欧州で買い付けられた家具たちとこれからは過ごすらしい。
慣れ親しんだ思い出の詰まったピアノだけに、下取りはされるのは寂しかった。なのでオフクロのその言葉を聞いて僕はホッとした。
「たまに店でピアノ弾いてもらってもええよ。そん時はお客さん呼ぶし」
とオフクロは思いついたように言った。
「ああ、いつかね。暇があったら考えとくわ」
と僕は応えながらピアノ椅子に座った。正直な気持ち、目の前にあるこのグランドピアノに興味をそそられていた。
蓋を開けて鍵盤に指をそっと置いた。
冷たい鍵盤の感触が伝わる。
――オヤジはこのピアノを弾いたんやろうか?――
間違いなく試しに何度か弾いたはずだろう。ただ僕にはオヤジの弾いた感触は伝わらなかった。
調律が終わったばかりのピアノ。無言で僕を待つピアノ。
僕は、かじかんだ手を合わせて少し擦ってから、人差し指を鍵盤に沈めた。
ポンっと音が帰ってきた。悪くない反応だ。
今度は中指も使ってポロンと鍵盤を弾いた。
うん。良い音だ。指に鍵盤の弾力が伝わる。悪くない。
僕はハノンの1番を弾いてみた。
鍵盤の硬さが心地良い。そのまま続けて2番まで弾いてみた。本当にまだ弾かれ慣れていない鍵盤の硬さを僕は堪能した。新鮮な感覚だった。なんだか嬉しい。
これからこのピアノはどんな音を出してくれるのだろうか? そう思うと少しワクワクした気分になった。と同時にこのピアノに僕がこれからどんな音色を創り上げていくのかを問われているような気がした。
そんな僕の気持ちを見透かしたように
「気に入った?」
とオフクロが聞いてきた。
「うん」
僕は素直に頷いた。
「でも、なんでハノンなん?」
オフクロが不思議そうに聞いてきた。
「え?」
「普通はもっとそれなりの曲を弾くもんとちゃうの? なんでハノンなん?」
「なんで? って言われても困んねんけど……」
確かにオフクロの言う通りもう少しましな曲でも弾けばいいものを……と僕も思わなくも無かったが、僕自身も説明がつかなかった。強いて言えば鍵盤の感触を確かめたかったので、自然と基本的なハノンを弾いた……ともいえるかもしれない。
そもそもそんなどうでも良いような事にツッコミがあるとは思ってもいなかったので答えようがない。
僕が今分かっている事と言えば、このピアノとはこれから長い付き合いになるだろうという事だけだった。
同時に、
――もしかしたらこれがオヤジから貰った初めてのプレゼントかもしれない――
という事に僕は気が付いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます