第289話 ノクターン第2番
僕が
そんなどうでも良いような事を考えながら鍵盤を改めて見た。
自分でも笑みがこぼれるのが分かった。素直に嬉しかった。
たとえそれがバレンタインに対する悔しさからくる当てこすりであったとしても。
――オヤジに買ってもらったピアノかぁ――
「何かリクエストある?」
と僕はオフクロに聞いた。こんな事を聞くなんてやはり気分は高揚している。
自分らしくないことを言っている自覚はあったが、このピアノで初めて弾く曲の選択権はオフクロに献上する事にした。
「え? お母さんが選んでもええの?」
オフクロにも意外だったようで、驚いたように聞き返してきた。
「うん」
僕は頷いた。
「う~ん、じゃあねぇ……『ノクターン第2番』はどう?」
少し考えてからオフクロは言った。
「ショパン?」
「そう」
オフクロは力強く頷いた。
――なんか、この曲に思い入れでもあるのか?――
と僕が想像を
「まあ……ええ選曲やな」
まさかこの曲をリクエストされるとは思ってもいなかったが、このピアノの初めての曲にはなかなか良い選曲の様な気がした。なのでオフクロに思い入れがあったかどうかなんて事はどうでもよくなった。
「息子に弾いて貰いたい曲第一位!」
とオフクロは胸をそらして言った。
「なんやそれ? 勝手に作んな」
そんなランキングは聞いた事が無い。
僕は笑いながら上着を脱いで鞄の上に置いた。そしてシャツの袖をまくって折った。
そしてもう一度手の平を合わせて指を広げてから。鍵盤の上に指をそっと置いた。
頭の中に音符が浮かぶ。
――久しぶりに弾くかも――
でも、大丈夫だ。この曲は昔、嫌というほど弾いてきた曲だ。まだ完璧に覚えている。
この曲の甘美な美しい旋律は誰もが知っている夜想曲だ。僕も好きな曲の一つだ。
鍵盤の上にそっと指をおいた。
スッと指が沈んで音の粒がピアノから零れ出した。まだ硬さが取れないが良い音の粒だ。透き通った色を感じる。
弾き出すとなんとなく小学生の頃に戻ったような気分になった。つられて初心に帰ってしまったか?
伊能先生とのレッスンの情景が浮かんできた。
そう、この曲のレッスンを伊能先生から受けている時に『この曲って色々な表情があるような気がするなぁ』と呟いた事があった。するとそれを聞きとめた先生が『いろいろな表情って?』と聞き返してきた。
『同じような旋律が繰り返しなんやけど、いくらでも違う表情が出て来て楽しい』と応えたら、少し驚いたような顔で『そうなのね。亮平君には沢山の表情が見えているんだね』と言って好きなように弾かせてくれた。
それ以来レッスン行くたびに先生は『今日はどんな表情を見せてくれるのかな?』と言って、僕を気分よく図に乗らせてくれていた。
そうやってものの見事に嵌められていた僕は、暫くは毎回レッスンの度にこの曲を最初に嬉しそうに弾いていた。
僕はそんな形で伊能先生から『表現力』について習ったような気がする。いや、それまでにも色々と習っていたのだが、この曲での音に表情がある事を知ったような気がする。
あ、そう言えばその当時、レッスンから帰って来たらオフクロの前でこれを弾いたいたなぁ……と余計な事も思い出した。この曲をオフクロの前で弾いたのは今日が初めてではない。もっともリクエストされたのは初めてだけど。
と、そんな事を思い出しながら弾いていたら、あっという間に弾き終わってしまった。
『もう少し音の粒を感じながら弾きたかったのに』と少し後悔が残った。まあ、どうでも良い後悔だけど。
曲が終わるとオフクロが
「なんだか懐かしい事を色々思い出したわ」
とぼそっと言った。
やっぱり何か思い入れがあった様だ。それともオフクロも僕と同じように、その頃の僕の事を思い出していたんだろうか? オフクロの顔を見たら、それではないような気がするが……。
そう。どうもオヤジの影を感じる。
ピアノに関してはオヤジとも思い出があってもおかしくはない。
とそんなどうでもいいような事を考えながらオフクロの顔を見ていたら、オフクロが唐突に現実に引き戻されたかの様な顔つきになって
「あんた、ちゃんとお父さんにお礼を言うときや」
と言った。まさに我に返ったという表現がぴったりとはまる態度だった。
言われるまでもなく、オヤジには連絡をするつもりだった。それ位の常識は僕でもわきまえている。
「ああ、分かっとぉ」
と素っ気なく僕は応えた。
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