第268話 パルティータ第2番
音の粒が重く弾ける。ベートーヴェンとは違う音の広がり。どこからどう聞いてもこれはバッハの音だ。
この音をホールに響かせた瞬間、僕はここがコンサートホールである事を意識しなくなっていた。そんな些細な事はどうでも良くなっていた。
それなのに相変わらす渚さんの声が聞こえる。まるでいつものレッスンの様に。
『感性だけで弾くもの良いけど、ちゃんと理由が分かって弾くのとは全然違うのよ。プロになるのであれば、それはちゃんと意識しないといつもその場任せの音になっちゃうから。感性は大事だけど理論も大事よ。苦手だろうけどそこは意識して。一発屋になりたくなければね』
なんだか台詞と曲が合っているような気がして笑える。
あの日のコンクールが終わった後に渚さんから
『今日の演奏は奇跡だわ。今日、この時、この場所でしか聞けない音だったわ。それをあんたは見事に弾き切っていたわ』
と褒められたが、その後『感性だけで弾いている』とたびたび注意された。
渚さんには僕の演奏はそう言う風に見ていているようだ。まさか今ここで鳴らすのにふさわしい音が聞こえているなんて事は間違っても言えない。どこか頭の打ちどころでも悪かったのかとか言われるのがオチだ。なので敢えて僕は反論もせずに黙って頷いている。
でも渚さんが教えてくれる事はとても理にかなっているし技術的に納得できる事が多い。
そう言えばコンクールの前はほとんど何も教えてくれなかったのに、終わった後の方が明らかに指摘が多い。
特に『何故その音になるかを考える』という渚さんの言葉を聞いて以来、僕なりにピアノを弾くたびに考えるようになった。
『ほら、そこ。上げた手を止めるから音が切れてしまう。そこはそのまま落とす。手首を使って。分かる?』
それは僕も分かっていたが、どうしてもうまく表現が出来ていなかった。
『バロックは手首を縦に回すのよ。それじゃあロマン派ね』
僕の未熟な表現方法を渚さんは的確に教えてくれる。
そう、感覚では分かっていても満足いく音が出なかったりする。弾き方自体は間違っていないのだが、この場合には合わない事もある。そんな事は意識して弾いた事は無かった。
今日の僕は今までと違った弾き方をしている。頭で考えている……いや、正確には感じたまま弾いているのだが、後追いで理由付けしながら弾いていた。
『僕だけの音』『僕だけにしか表現できない旋律』そんなものがあるとしたら何としても弾いてみたい。
僕は自分が奏でた音の粒を目で追っていた。耳で感じていた。
――この音ならコンクールでも良い成績を残せるんじゃないのかなぁ――
と思いながら気持ちよく弾いていた。
と同時にバッハの存在を感じながら、僕は自分のピアノの音に引き込まれるような感覚を覚えながらピアノに向かっていた。
心地よく第四楽章を弾き終えた。
これから第五楽章ロンド、第六楽章カプリッチョに向かう。
僕がこの曲で一番好きな楽章だ。
一瞬の間。
そして軽い音が響く。僕のロンドの始まりだ。
音は跳ねているが乾いた軽さではない。
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