第267話久しぶりのステージ

 で、今目の前にはグランドピアノが静かに佇(たたず)んでいる。


――これからは僕の時間だ――


 スポットライトに浮かぶピアノ。まるで僕を待ってくれているかのようだ。

この情景を見てやっと『これからこれを弾くんだ』という実感が湧いてくる。


 椅子に座る。良い感じの高さだ。調整の必要はない。

僕の前に弾いたのは冴子だ。冴子はいつも椅子を高めに調整するが、ピアノ教室で冴子の後にピアノを弾く事が多かった僕はその高さにいつの間にか慣れてしまっていた。だから冴子の後は楽で良い。


 ガラコンサートで冴子の後に弾くなんて不思議な感覚だ。


それはさておき

『パルティータ 第二番 BMW826』


バッハの一連のクラヴィーア組曲集の集大成『パルティータ』。この曲はその中の六曲あるうちの一つ、ハ短調の作品だ。曲自体は六楽章からなる組曲だ。


既に僕の頭の中ではこれから弾く第一楽章『シンフォニア』が鳴っていた。


バッハとの楽しい会話のひと時がやってきた。


 黙って鍵盤に目を落して軽く息を吸った。


何故だかバッハではなく渚さんとの会話が蘇ってきた。今回のガラコンサートの前に渚さんのレッスンを受けていた影響だろうか。


『この曲に限らずいつも思うんだけど、亮平は本当に感覚だけで弾いているっていうのがよく分かるわ。それでこれだけ弾けるから凄いのよねえ……内声もちゃんと歌っているし……ここ、意識して弾いているの?』

と感心したように言われた。


『ううん。ここはこういう風に弾いた方が良いと思っただけ』

僕は首を振りながら答えた。


『そうなのよねぇ……あんたはこういうのをサラッと弾くのよねえ』

と感心したのか呆れたのか分からないような顔で渚さんは言った。多分七:三で呆れていたと思う。


『この第一楽章のここね』と言って渚さんは楽譜の速度記号のGrave adagioから五線譜を人差し指で二小節までなぞった。

『このリズムはなぜ?』


『そう感じたから』


『じゃあ、この休符とこの休符は?』


『次に続く一瞬の間……かな?』


『フルストップではないと?』


『うん。それはちゃう。この流れからそれは無いと思う』


『はぁ、ちゃんと分かっているのよねえ……』

と渚さんは呆れたように、ため息交じりに呟いた。


 そんな事を思い出しながら僕は鍵盤にそっと指を置いた。

鍵盤から今までの演奏者の熱気が伝わってくる。コンクールとは違う自由な熱気を感じた。


――このピアノも冴子の演奏が気に入ったようだ――


 冴子の余韻に浸っている場合ではないのだが、この余韻は心地良かった。冴子の人間性はともかく、彼女の弾くピアノの音は僕も大好きだった。


もう少しそれを感じていたかったが、後ろ髪を引かれるような思いで僕はその余韻から離れた。


――鍵盤の打点は気を付けて……付点を意識して弾く方が良い――


ピアノがそう教えてくれた。


 呼吸が深くなる。


『打鍵に気を付けて。つながりを意識して』


 渚さんの声がまた頭の中に響く。


――渚さんも同じような事を言っていたな――


それを意識しながら僕は指を鍵盤に落とした。

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