第269話 ロンドとカプリッチョ

――あ、いつもの感覚だ――


 ピアノに導かれるように心地よく第四楽章まで弾いたが、まだ自分の音を出し切れていない気がしていた。


 何も考えず自分の中にあるものを全てを絞り出すようなあの感覚。

コンクールの時とは違う感覚。とっても自由な感覚。いつもの僕の音を奏でたくなった。


――あの解放感をここで味わいたい――


 鎖で繋がれた飼い犬が広い野原で解き放たれたように音の粒が勢いよく一気に舞う。


 今の僕に弾ける最高の音。それをどれだけ出せるのか? 

ここの二つの楽章は、いつもの自分をさらけ出して弾いて良いと確信に近い思いがあった。


そもそもこれを弾きたくて僕はこの舞台に上がったのだから……。


――いつもよりテンポが速いか――


確かに僕は乗るとテンポを上げる癖がある。


――いや、これは俺が今弾きたい音や。せや、今日は自由に弾いて良いんやったわ――


 そう、今日はコンクールではない。本来の自分を思う存分出して良い日だ。

要するに勝手気ままに好きに弾いて良いという事なんだろう……と僕はそう解釈することにした。


とても気持ちが良い。


 鍵盤の上を僕の指がスキップするように飛び跳ねている。

それを見ているのも楽しい。


――このピアノも気持ち良さそうだ――


 僕は五楽章を弾き終わるとそのまま休まずに続けて六楽章を弾いた。

もう止まらない。

ピアノを弾くのが、この曲を弾くのが楽しくて仕方ない。


――バッハはこんなに楽しく弾けるんだ――


 勢いに任せて弾いてしまっていたが、何故か僕の指は勝手に音を表現してくれている。

なんだか指揮者の様な視点で自分の指を見ている。


 気が付いたら僕は鍵盤から湧き出る音の粒を楽しく見ていた。湧き出る音の中にいる自分がとても楽しくて愉快で、次のフレーズを早く弾きたくてうずうずしながらピアノに身を任せていた。

もう、自分が感じたままをそのまま鍵盤にぶつけていた。


――とってもきれいな音の粒だ――


今ここで出すべき最高の音。僕が感じたこの場の音の粒。それを僕はひたすら追いかけていた。


で、気が付いたらサラッと終わってしまっていた。その割にはそれなりに弾き切ったという満足感があった。


――バッハはライブで弾いた方が良いな――


 ここでこの曲を選んだのは正解だった。


観客席からの拍手で僕は、ここがガラコンサートの会場である事を思い出した。


 僕は立ち上がると客席にお辞儀をして頭を上げた。

スポットライトが眩しい。

客席は暗くてよく見えないが拍手が心地よい。この景色と充実感は何度見ても気持ちが良い。

僕はもう少しこのステージの上で余韻を楽しみたかったが、そそくさと袖に引っ込んだ。

背中越しにホールに響く拍手を聞きながら。


どうやら僕の演奏は観客に気に入ってもらえたようだ。


舞台からステージ袖を抜けて楽屋へと戻ると、冴子と梨香子が二人並んで待ってくれていた。

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