第270話 梨香子
「やっぱりあんたのピアノはえぐいな」
と冴子が苦虫を買いつぶしたような顔で言った。それは本気で言っていないという事はすぐに分かったが、演奏が終わった後にこういう反応をされたのは初めてだったので少し戸惑った。
「どういう意味や? それ」
と僕は聞き返した。
「梨香子に聞いてみたら?」
と冴子は無表情で視線を梨香子に向けた。
梨香子は僕の顔をじっと見つめて
「あれがただ単に『好きなだけ』で弾いている音なの? あんなカラフルな音が普通に出せるものなの? それをいとも簡単に本当に楽しそうに弾いていたわよね。憎たらしいぐらいに。あのピアノを聞いて私の迷いなんか吹っ飛んでしまったわ……」
とさばさばした表情で梨香子が言った。
「迷い?」
「うん。これが本気でプロを目指す人が出す音なんだなぁっていうのがよく分かったわ。そんな力も覚悟も無い人間が入っていく世界ではないっていうのをはっきりと理解したわ。本当にどうしようか迷っていた自分が恥ずかしくなるような演奏だったわ」
と、だんだんと梨香子の語気が強くなっていった。
「それに……コンクールの時の音と、今回のは全く違う音だった。本当の藤崎君の音はこんな音だったんだと思い知ったわ。私には絶対に出せない音だわ」
と言ってため息をついた。
「なんか、よく分からんけど、俺の演奏が気に入らなかったって言う事?」
多分僕は怪訝な顔で応えたと思う。
梨香子は慌てたように首を振ると
「ううん。その逆よ。本気というか、自由というか本当のあなたの演奏を聞いて目が覚めたって言うのかな……うん。そう。私の思っていた世界とはもっと次元が違うものだという事に気が付かされた演奏だったの。だから亮ちゃんの演奏を聞いている途中から背筋がぞっとするような感覚を覚えたわ」
「ふぅん。そう言うもんかなぁ?」
僕には梨香子のいう事がイマイチ理解できなかった。
――僕の音を聞いてとか、そんな人の音と自分を比べてどうするんや?――
と僕は梨香子の話を聞いて思っていた。
「普通に自分が今この場で出せる一番の音を追求したらええんとちゃうかぁ?」
と僕が言うとすかさず冴子が
「そんなんを簡単に言ってのけるのはあんただけやで」
と僕を睨みつけて言った。
――なんで? 冴子に睨まれなきゃならんのや? ――
梨香子は冴子を横目で見ながら
「本当に冴ちゃんの気持ちがよく分かったわ」
と呆れたように言った。
「でしょう?」
と冴子は満足げに頷くと、勝ち誇った様な笑顔を僕に向けた。
――お前らはいつもどんな話をしているんだ?――
とこの二人を問い詰めたくなった。
「でも、だからと言って私はピアノは辞めたりしないわ。私なりに楽しみを見つけて弾いて行けると思う。今日のステージも緊張したけど楽しかったし、亮ちゃんの演奏を聞いてあんな風に一度は弾いてみたいとも思ったし……第一私はヴァイオリンは弾けないし……」
と言って梨香子は冴子を見て笑った。
そして
「冴ちゃんのヴァイオリンも聞いてみたいなぁ」
と冴子の耳元で呟くように言った。
「うん。本選まで絶対に残るから聞きに来てよ」
と冴子は言った。
「ううん。予選から聞きに行こうかな?」
と首を軽く振って梨香子は上目遣いに冴子を見ながら言った。
「それって予選止まりって事? 本選まで残れるとは思ってないって事?」
冴子はちょっとむかついたよう軽く眉間に皺を寄せて聞いた。
――冴子らしいひねくれたツッコミだ――
「違うわよ。ちゃんと『予選から』って言ったでしょ」
と梨香子は笑って冴子の言葉を流した。
「え、ホンマに? それやったらうちに泊めたるから、おいでよ」
冴子は少し驚いたようだったが、打って変わって嬉しそうに応えた。単純なお嬢様だ。
本当にこの二人はいつの間にかに、僕が思った以上の仲の良い友人関係を構築していたようだ。
……というか冴子がこんなに簡単に胸襟を開いて人と付き合える人間だったという事実が、僕にとってはちょっとした驚きだった。
そんな僕の思いとは全く関係なく、与り知らぬ勢いで
「本当に良いの? 行くわ!」
と梨香子は飛び上がらんばかりに喜んでいた。彼女は本気で神戸まで来る気のようだ。
「即決かい!」
と僕は思わずツッコんでしまった。
梨香子はもっと大人しい女子高生だと思い込んでいたが、そうでは無かったようだ。とてもポジティブな女子高生だった。もしかしたら冴子がこれほどまでに彼女を受け入れたのも、梨香子のこの性格によるのかもしれない。
しかし、コンクールの時に冴子の演奏を聞いて意気消沈していた人間とは同一人物とは思えない変わりようだ。冴子といい梨香子といい、本当に僕の予想の範疇をさっさといとも簡単に超えてくれる。
「うん。一度、神戸にも行きたかったし、亮ちゃんも遊んでね」
「え? うん。ええでぇ」
と応えながら、いつの間にか梨香子は僕の事を名前で呼んでいる事に気が付いた。
それに違和感なく自然な距離感で対応している僕自身にも少し驚いていた。
彼女は、気が付けばいつの間にか傍にいる猫の様な女子高生だなと思いながら、僕は彼女の笑顔を見つめていた。
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