第263話 想い出
「あんたのお父さんは夢を叶えられんかった。諦めなならんかった。私はそれを傍でずっと見ていたの。本当に辛かったわ。一番辛い思いをしてんのはあんたのお父さんやのは分かっとうねんけど……お母さんも辛かった……ううん。ホンマに悔しかった」
オフクロの口から語られるオヤジの若い頃の話。これまで一度も聞いた事が無かった話だった。話を聞きながら安藤さんの店での出来事を思い出していた。そう、オヤジがピアノを辞める事になった原因を爺さんに聞いたあの場面が脳裏に蘇っていた。
「もうあんな姿を見とぅないわ……でもお父さんな。辛かったはずやのに全然そんな素振りを見せへんねん……でも分かんねん……ピアノに指一本触れなくなって見向きもしなくなって……それを見ながら『まだ気持ちの整理がつかんのやろうなぁ……』って……あんたのお父さんは、ああ見えても気ぃ使いやし、プライド高いしな」
そう言うとオフクロはお茶を飲んだ。
最初に見た時は湯飲みに入った焼酎か? と思っていたのだが、急須からお茶を注ぐのを見てそれが酒の類ではない事が分った。流石のオフクロも今日は朝から酒を飲む気にはなれないようだ。
「なあ、母さんは父さんがピアノを辞めた理由、聞いて知っていたんやったよなぁ」
「うん?……うん。聞いたわ」
爺ちゃんに会った次の日の朝、僕はそれをお袋のその事を話した事を思い出していた。
「なかなか白状しなかったけどね」
と言って少し寂しそうに笑った。
「父さんも悔しかったんやろうなぁ……」
「うん。間違いなくね……だから、あんたは心置きなくやりたい事をやって欲しいねん……でもね、あんたが『ピアニストになりたい』って言った時、ホンマはどう応えて良いのか分からんかってんなぁ」
「そうやったんや……」
その時はそんな素振りは全く見せなかったので、僕は全然気が付いていなかった。
「またお父さんと同じ事になるんとちゃうか? とかそんな事までちょっと考えてしまったんやけど、同時にホンマに嬉しかったんよ。やっぱり親子やなぁって思って……」
「そっかぁ」
オフクロの口から語られるその言葉は、なんだかいつものオフクロとの会話とは思えない感覚だった。
オヤジの事、僕のピアノの事、オフクロの気持ち……そんな話をした事は今まで一度も無かった。あまり僕の人生や考え方に口を挟んだり自分の考えを押し付けたりしないオフクロだったので、改めてこういう話をすると違和感とこっぱずかしさが混在する何とも言えない気持ちを味わっていた。
でも、この空気は嫌いではない。ただ慣れないせいか居心地は少し悪いけど……。
「だから今は、あんたがフランスに本気で行きたいんやったらお母さんは大賛成やねん。お父さんの夢を代わりに引き継ぐみたいな事は考えんでええから、自分がやりたいようにやりなさい」
そう言ってオフクロはフランス行きを認めてくれた。
「うん」
オフクロはそう言ったが、僕自身はオヤジの夢を引き継ぐという事に関しては全然問題は無かった。
もし僕が誰かにそう言う風に言われたり思われたりしたとしても、僕自身は何とも思わなかった。それどころか、それはそれで少し嬉しくもあった。
息子にとって父親とは超えるべき壁であるのかもしれない。『父親を超えた』という実感を得られるのであれば、それがオヤジの夢を引き継ぐことであったとしても、納得は出来そうな気がしていた。
唐突に現れた実の父親は、僕にとって越えたくなるような存在になっていた。
もっともオヤジ自身はそんな事をひとことも言わなかった。たまたま親子でやりたい事が一緒だった……そんな風に見てくれているような気がしていた。
「ところでガラコンサートは?」
思いだしたようにオフクロが聞いてきた。
言われるまで僕は完全に忘れていた。
「あ!」
「のんきやな。いつあんの?」
呆れた表情でオフクロは聞いてきた。
「今月の終わりぐらいかな」
「あんたは出るんやんなぁ?」
「うん。冴子と一緒に出る」
「準備は出来てんの?」
「ぼちぼちとは……ま、大丈夫やろ」
本番当日に弾く曲はもう決めてあった。ある意味僕にとっては弾きなれた曲だった。
「ホンマにのんきやな」
とオフクロは呆れたように言ったが続けて
「でも、あんたが好きなように弾くピアノはお母さん好きだな」
と笑って言った。
「ふ~ん」
と僕はいつもの事だと聞き流した。
「そうよぉ。あんたが自由にピアノを弾く時は、見ていて気持ち良くなるぐらい本当に楽しそうに弾いているからねえ……コンクールでの演奏も好きだけど、あんたが何のしがらみもなく弾くピアノは音の粒がカラフルなのよね」
僕は思わず
「カラフル?」
と聞き返した。オフクロにも音が光の粒に見えるのかと一瞬ドキッとした。
「そう。音の一つ一つにちゃんと意味を感じる音。だから絵画の様にちゃんと色の構成ができているのよ。お父さんのピアノの音もそうだったけど、あんたのピアノの音も色を感じるのよねぇ」
と言ってリビングのピアノに目をやった。
どうやらオフクロには僕やオヤジの様に音の粒が見えている訳では無く、そんな風に感じているだけのようだった。
――流石は我が母親やな。視えなくても感じる事は出来るんや――
と少し誇らしい気持ちになったのと同時に、同じくらい少し残念な気持ちにもなった。
――あの景色を見せてあげたいもんだな――
「もう弾く曲は決まっているんでしょ?」
とオフクロは視線を僕に戻すと聞いてきた。
「まあね」
と応えて僕は笑いながらテレビのリモコンを取った。
「あ、駅伝観るのを忘れとった!」
もう少しで毎年恒例の行事を忘れるところだった。やっと僕の頭も今日が元日である事を実感し始めたようだ。
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