第127話 カノン
「それではまず音合わせからしてみましょうか?」
先生がそう言うと哲也と石橋さん以外は楽器をケースから取り出し始めた。
二人は音楽室を出て準備室に楽器を取りに行った。
そしてこの二人が帰ってくるのを待って音合わせが始まった。
僕はピアノの前に座って軽く鍵盤を弾いて最初の音を出した。
弦楽器のチューニングが始まった。僕はこの瞬間の空気が好きだ。ああ、今から楽しい時間が始まる……その予兆を体いっぱいで感じられる時間だ。
ここにいる人はそれなりの経験がある奏者だ、手慣れた感じで音を合わせていく。
「曲は何をやるんですか?」
音合わせが済んだ千龍さんが先生に聞いた。そういえば誰もそれを聞いていなかった。
「あ、そうだったわね」
先生も忘れていたようで、慌てて机の上に置いた荷物から楽譜を取り出して僕たちに配った。
手にした楽譜はパッヘルベルのカノンだった。
正式には
「三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」
という。
そう、元々は弦楽器がメインの楽曲だ。僕はピアノ曲としてこれを何度も弾いてきた。
「僕もこの中に入って良いんですか?」
「勿論、良いわよ。入って頂戴」
「この曲なら、あなた達のレベルなら弾いたことはあるわよね?」
と先生はさも弾けて当たり前のように聞いた。
僕たちはお互いの顔を見回して頷いた。
弦楽器の五人は過去この曲をそれぞれ合奏した事があるのだろう。
僕はこれを一人でしか弾いた事しかない。だが、今回のパートは通奏低音だ。チェロとコントラバスと同じパートだ。
「先生、ちょっと譜読みさせてもらっていいですか?」
「あ、そうね。今回はピアノ独奏とは違うからね」
僕は十分ほど時間をもらって譜面を目で追った。別に見直さなくても自信はあったが念のために譜面をじっくり読みたかった。
予想通りの音符が並んでいた。これなら初見でも弾ける。
これはオリジナルの楽譜かもしれない。パッヘルベルが一八六〇年頃、神聖ローマ帝国時代のドイツで作曲した当時の譜面だろう。ピアノではなくチェンバロかオルガンの方が似合うような気がするし、アドリブを少し入れても良さそうだ。
僕が譜読みをしている間に哲也たちも、譜面を見ながら音合わせをしたりしていた。
「良いです。もう大丈夫です」
僕がそう言うと
「初見で大丈夫?」
と先生は聞いてきた。
「はい。これなら大丈夫です。全く問題ありません」
僕は自信をもって応えた。
先生は頷くと
「だよね。では始めましょうか?」
と言って僕たちの顔を見回してから指揮棒を持って構えた。
ゆっくりと指揮棒が押し出されるように振り下ろされて、音楽室に静かにバロックの調べが流れ出した。
静かに低音パートから始まる。ピアノ・チェロ・コントラバスの調べが音楽室の床を這うように音の絨毯を敷き詰めていく。
そこへ小此木さんのヴァイオリンが物語を囁くように僕たちの敷き詰めた絨毯の上を流れていく。
千龍さんのヴァイオリンが続き、音の粒がまろやかさを増すと瑞穂のヴァイオリンがその粒に厚みを増すように音をかぶせていった。
中盤は先輩二人に瑞穂が食らいついていた。二人から受け継いだ旋律を一歩もひけをとらずに受け継ぎ、三人はきれいな音の波を音楽室の隅々に届けていた。
先輩二人はアイコンタクトで何かを語りながら瑞穂の音の粒の行方を見ているようだった。
元ラグビー部の石橋さんはゆったりとした低音を響かせていた。つい最近まで毎日グラウンドを駆け回っていた人とは思えない正確な音だ。いつ練習していたんだろう? チェロの哲也は少しそれに引っ張られていたが、問題なく音の粒をきれいに揃えていた。
僕も彼らの音の波に乗りながら鍵盤の上に指を躍らせていたが、どちらかと言えばゆったりとした気持ちで彼らの音の粒に身を任せて和音を重ねていた。とっても気持ちが良かったので余計なアドリブは抑え気味にした。
音の粒はいつの間にか音の波となって音楽室を満たした。僕には綺麗な七色の光の帯に見えた。
先生の指揮するカノンは調和のとれた音を音楽室を満たしていた。音楽室がバロック時代のエアフルトの街にある大聖堂に変わったようだった。ステンドグラスからこぼれ出る陽の光や礼拝堂にかけてあるクラナッハの「聖母子と聖人達」の絵が目の前に見えるような気分になる。
そして僕たちのバロックは音楽室の壁に吸い込まれていくように、静かにそっとその調べを終えた。
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