第128話 弦楽四重奏
先生は指揮棒をゆっくりと下ろすと
「驚いたわ。正直、ここまで弾けるとは思ってもいなかったけど……初めてでこんなに合うなんて……」
と少し上ずったような声を上げた。
演奏をした僕たちも、弾き終わってからもその余韻に少し浸っていた。
僕自身は取り立てて何かをしたと言うものはなかったが、この六人で生み出したこの瞬間の音に魅せられてしまっていた。
——僕一人では絶対に出せない音やな——
それと同時に
——こんな音が今、俺たちには出せたんや——
と少し感動していた。
それにしても小此木さんも千龍さんもコンテストに出るだけあって上手い。その二人に張り合える瑞穂も凄い。自分がヴァイオリンを弾いた訳でもないのに何故か誇らしかった。
「流石にコンクールで毎回上位入賞する人たちだけあるわね。先生とっても幸せな気持ちになれたわ」
と今度は喜びに満ちた表情で僕たちを見た。
「先生、これからこの六人でずっと演奏するんですか?」
石橋さんが先生に聞いた。
「いえ。そうではないわ。色々と組み合わせも変えてみたいし。今度は三人で弾いてもらえる?」
と僕たち二年生三人に声をかけた。
僕達は瑞穂が書いてきた楽譜を取り出して「Eleanor Rigby」を演奏した。予想通りの厚みにかける音ではあったが、瑞穂と哲也のストリングスはとても美しかった。これに三年生が入ったら、音の厚みは一気に増すだろうと思う。
小一時間ほど先生は組み合わせを変えたり、また六人で弾かせてみたりしていた。指揮棒を振ったのは最初のカノンだけで、それ以降は先生は指揮をせず僕たちの演奏を黙ってそして楽しそうに見ていた。
そして最後にピアノの僕とコンバスの石橋さんを除く四人に弦楽四重奏を奏でるように指示を出した。
千龍さんはヴァイオリンをヴィオラに持ち替えた。ヴィオラの方がヴァイオリンよりも一回り程大きい。
うん。確かに顔の大きさからだとヴィオラの方がしっくりくるかもしれない。本人を目の前にしては言えないけど。
流れ出た調べはハイドンの弦楽四重奏曲第77番「皇帝」第二楽章「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」だった。
この曲はハイドンが作曲したオーストリアの祝歌の変奏曲である。
主題を奏でる楽器が順番に変わるのでヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと奏者の実力も晒される。
第一変奏の主題を弾いた第二ヴァイオリンの瑞穂に小此木さんが十六分音符のオブリガードで手を差し伸べる。二人の呼吸はとても合っている。
それにしてもこの二人の二重奏は花がある。僕のオヤジなら「艶があるな」とか言うのだろうな。
お互いがコンクールでの演奏を見ているからなのか、相手の技量が分かっているのだろう……初めてとは思えない美しいハーモニーを奏でていた。
それを唖然とした表情で眺めていた哲也の顔が面白くて僕は笑った。演奏に集中しろよと言ってやりたくなった。
でも哲也にしてもこのハーモニーは驚きであったようだ。その気持ちはよくわかる。
千龍さんは自分のパートが休みの小節は、ヴィオラを抱きかかえるようにして目をつぶって二人の音色に浸っていた。
女性二人の美しいハーモニーが終わるとおもむろに哲也が華やかだった空気を落ち着かせるように優しく弓を弾いた。
第二変奏の哲也はお姫様を迎えに行った従者の如くやさしく受ける。重々しいが穏やかな音がゆっくりと抜けるように響く。
瑞穂と哲也のアイコンタクトが見ていて微笑ましかった。この二人で何度もこの曲を弾いた事があるんじゃないのかとふと思った。なにが伸び悩みだ。全然余裕で良い音出しているじゃないか。
そして第三変奏でヴィオラの千龍さんが三人を迎え入れるようにゆったりと奏で始めた。小此木さんのヴァイオリンの音がなんだか千龍さんに甘えているような軽やかな音の粒に見えた。千龍さんの音は本当に面倒見のいい先輩って感じがする。小此木さんがそれをどう受け止めるのか期待が高まる。
小此木さんは優雅にそして囁くようにヴァイオリンの音を奏でた。それに瑞穂は応えるかのように弓を合わせて弾いている。あの自己主張の強そうな性格とは裏腹に、もう何度も一緒に弾いてきたかのような、小此木さんに寄り添うように包み込むようにやさしく音を奏でていた。
小此木さんのヴァイオリンは徐々に透明感を増し伸びのある艶やかな音の粒を生み出していった。
――こんな音が出せるんだ――
僕は少し驚いていた。小此木さんは本当に上手い。そしてこの楽曲をよく知っている。
彼らの弦楽四重奏曲が音楽室という空間で静かに収束していった。
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