第46話 ハンガリー舞曲

 レーシーは安心したように笑って

「そうよ。これからもよろしくね」

と帽子を取ってテーブルの上でお辞儀をした。

さっきまでの偉そうな態度とは打って変わって可愛い妖精そのものだった。


 帽子を取ったレーシーはブラウンの長い髪が綺麗な妖精だった。

そして透き通るようなエメラルドグリーンの瞳が印象的だった。それにしても妖精のくせに日本人的な挨拶をするもんだ。僕はヨーロッパ風にスカートを両手でつまんで挨拶するのかと思っていたが違った。



「ねえ、もうピアノは弾かないの?」

レーシーはおねだりするように聞いてきた。馴染むのが早いぞとツッコミたくなったが、多分まともに受けごたえされて、一人滑るハメになるだろうとレーシーの顔を見て思った。

妖精相手に関西人のノリツッコみが通用するか僕には自信が持てなかった。


「ピアノ? 後で弾くつもりやってんけど……今聞きたいん?」

と僕は聞いた。


「うん。ここでの生活で一番の楽しみ」

レーシーは瞳を輝かせるように見開いて、そして笑った。彼女の瞳の色が一段と濃くなったような気がした。

その瞳を見て『だったらこの頃はその楽しみが少なかったかもしれないな……ちょっと悪い事をしたかも』と少しだけ心が痛んだ。

もう少し真面目にピアノを弾いてあげればよかったと少し後悔した。


「そうなんや。そう言われたら弾かんとあかんなぁ」

 さっきまで不気味に思っていた物体とこうやって普通に話している自分がちょっと可笑しかった。

物体というのは失礼だな。妖精だった。


 僕はピアノに向かい鍵盤を見つめた。

――さて、何を弾こうか?――


 僕は考えた。そしてはたと気が付いた。


妖精の喜びそうな曲なんか俺は知らんぞ……という事に。


……って知っている奴はこの世には多分おらんだろうけど……。


 いや、かの変わり者のモーツァルト大先生なら妖精の喜びそうな曲なんか知っていそうだが、流石にモーツァルトに聞く訳にも行かんだろう……。

お嬢に出会ってから色々なものが見えるようになったと言っても、流石にこれは無理だろう。


 レーシーはいつの間にかさっきと同じようにピアノの上にちょこんと座っていた。

目の前に変な妖精が居る。今度は最初から妖精だと分かっているので何か不思議だが楽しい。


「何かリクエストある?」

さっさとこの妖精に聞いた方が早い。僕の決断は至極まともだった。


 彼女は少し首を傾けて考えたが、直ぐに軽く首を横に振った。

なんでも良いらしい……と思ったが、彼女の声を聞いていて僕の頭にあるイメージが湧いていた。

そして僕はそのイメージに一番近いと感じた曲を弾こうと思った。


 それはブラームスの『ハンガリー舞曲第5番』だった。



 この曲は僕が中学一年生の時に冴子と連弾で弾いた曲だった。


ブラームスはベートヴェンと同じように自然を愛した作曲家で、元々この舞曲集は流浪の民ジプシー音楽から影響を受けピアノ連弾用に編曲したものだった。


 彼らジプシーの奏でる音楽はロマ音楽とも呼ばれ西アジアからヨーロッパにかけて各地の音楽に多大な影響を与えていた。

 

 この曲ならこの妖精も聞いたことがあり気に入っているだろうと思ったのだが、単なるインスピレーションでこの曲が頭に浮かんだというのが本音だった。


 ちなみにこの曲の1番も冴子と一緒に弾いたが、彼女はピアノを上手に弾きこなす。本当に器用な奴だ。僕は冴子の弾くピアノの音は案外気に入っている。軽くても薄くはなく、音ははっきりと力強く響く。

弾いてる本人は憎たらしい奴だが……ピアノに関しては認めざるを得ない実力を持っていると思っている。


 実際にコンクールにはよく出ているし、いつも上位に食い込んでいる。本人はどう考えているか知らないが僕よりよっぽどピアニストに向いている。


 僕はそんな事を思い出していたが、急に冴子のいつものあの勝ち誇った憎たらしい顔が浮かんできた……いかんいかん。


思わず指先に余計な怒りの力がこもりそうになった……危ない危ない。


 レーシーはさっきと同じように目を閉じて音楽に合わせて体を軽く揺らせながら聞いていた。


――気に入ってくれたかな?――


 僕はそんな事を思いながら鍵盤の上に指を踊らせた。

彼女はとっても気持ちよさそうに聞いている。


曲が弾き終わるとはゆっくりと目を開いて僕に言った。


「やっぱり、音が変わったね」


「変わったかな? 自分でもなんとなく以前とは違なぁとは思っていたけど……」

と応えたが、実は昨晩オヤジの『月光』を弾いた時からなんとなくそれを感じていた。

今、レーシーに指摘されて、今ははっきりと自覚した。


 今まではどう弾こうか? とか……この曲はここに気をつけて弾かないと……とか技術的な事を結構考えていたような気がする。


 でも、さっきのカノンの時にも感じたが、この曲は……このピアノはどういう風に弾いて貰いたいのか? あるいはこのピアノは今どんな音を鳴らせたいのとかを感じながら弾いていたような気がする。

そう、自分の感じるままに弾いていた。技術的な事はほとんど考えなかった。


「うん。この頃、全然弾いてくれなかったけど、それでもたまに弾いた時はなんか違う景色が見えるような気がしていたの」

とレーシーは言った。


「弾いてなかったなぁ……ちょっとね。ピアノから少し遠ざかっていたからね」

僕は頭をかいて言い訳をした。


「でも、今日の音も好きよ。と言うかこの音の方が好きかな。うん。今の方が音が自由な気がする。音の粒が楽しそうだもの」

レーシーは何度が小さく頷きながらそう言った。

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