第47話 キラキラ星変奏曲

 僕はその言葉を聞いて少しほっとした。実は僕も同じような事を感じていた。

 

 ひとことで言えば僕は今まで結構、頭で考えながら弾いていたような気がする。いや、結構好きなようにも弾いていたが、『楽譜通りに弾く』というのがある程度使命感のように頭の片隅にこびりついてた。

 

 冴子とか宏美達から『いつも自由に好きなように弾いている』と言われていたが、自分ではそれほど自由に弾いていたとは思ってもいなかった。

ある程度以上はなんとなく制約しているような弾き方だったような気がする。


 僕にとってピアノ弾くという事は、ある部分は『どれだけ楽譜に忠実にそして正確に弾けるか』という事でもあった。それに挑戦するのが楽しみでもあった。


そう言えば自由に好きな音をかき鳴らすよりも、執念を燃やしながら挑戦していたような気もする。 


 それがこの頃、今弾いている場所での一番いい音色……いや音の粒がなんとなく頭に浮かんでくるような感覚になってきていた。

その音を僕の指は再現しようとしている。


 自由とは少し違うが、僕が今感じている一番いい音の粒を奏でている快感を感じながらピアノを弾いていた。

これは今までとは違ったウキウキする感覚だった。


 弾けなかった曲が上手く弾けるようになった。弾けなかったフレーズが弾けるようになった。何も考えずに楽譜の通りに弾けるようになった……こんな経験は今まで腐るほどしているが、それとは似て非なる感覚だった。


 そう、積み重ねの末に感じ取る感覚ではなく、急に降って湧いてきたような感覚。突然、強引に割って入ってこられたような気にさえなるこの感覚。とっても不思議だった。


 今まで僕が立っていた場所が……見ていた景色が一瞬で変わった。


そして立ち位置が変わると音ももちろん変わる。



 今はもう自分がどう弾けるかなんて事は考えていなかった。そもそも弾けないという事はよっぽど難易度の高い超絶技巧でない限り有り得ないと思っている。


 いやこれは単なる自惚れかもしれない。そこまで自分の技術があるのかは疑問だが、今の気持ちを正直に言うとそうだった。

 ここ数ヶ月まともに弾いてはいなかったが、まだ余裕で元の状態に戻せる状況だ。それなりに僕の身体に染み込んでいる。


「亮平は充分表現できる力と技術を持っているわ。今は感じたまま弾けば良いのよ」

レーシーは僕の気持ちを見透かしたように言った。


「おかしくなかった?」


「ううん、音が綺麗になった。さっき聞いた時もそうだったけど、音の粒が更にはっきりと綺麗に聞こえるようになった。自分の好きなように感じたままに弾いていても、はっきりと厚みのある音の粒になっていたわ。自由な音ね」

レーシーは首を横に振って僕を安心させるように僕の音を褒めてくれた。

僕は少し嬉しかった。


「自由な音?」

と僕は聞き返した。


「そう。音の粒と粒がちゃんと独立して主張していたわ。ピアノに対する感じ方が変わったのね」


「それならなんとなく分かる」

と僕は応えた。


「うん。好きなように弾いているけどちゃんと音の意思が伝わってきた。もちろん亮平の意志も」

彼女はそう言って話を続けた。


「今、この瞬間に一番いい音の粒が生まれて、それが曲になってわたしの耳に届く。音が曲になるというのは、それは音が自らの意思を表現すること。それは自然界の意思。亮平は意識していないかもしれないけど、今日聞いた亮平のピアノにはそれがあった」

レーシーは、その可愛い瞳と少し赤い頬に似合わない真剣な表情で僕にそう言った。


「意思かぁ……父さんもそんな事を言っていたな……なんかよく分からんけど、それって褒められているのかなぁ」

 僕は妖精に真顔でピアノを批評されたのはこれが生まれて初めてだった。多分こんな経験をした事があるピアニストなんてあまりいないだろう。そう思うとまた少し嬉しさが増した。


「そうよ。本当に私が生まれ故郷の森で聞いた音のようだったわ。風の音よ。木々の囁きよ。何があったか知らないけど、1日でこんなに音が変わるなんて驚いたわ。でも、私は嬉しい」

レーシーは本当に嬉しそうに頷いた。


 自分の醸し出す一音一音がはっきりと耳と身体に染み透る。彼女に「音は意思を表現している」と言われたがなんとなくわかるような気もする。



「でも、弱い。まだ弱い。まだ足りない。そしてまだ自分のものになっていない」

レーシーはさっきまでとは打って変わって険しい表情を見せて言った。


「え? そうなの?」

と僕はうろたえ気味に聞き返した。


「うん。もっと透き通った音……透明感がまだ足りない。まだ自分の意思でテクニックで弾こうとしているところがある……でもいつか亮平は弾けると思うわ。大丈夫。ちゃんと自分の音を見つけると思うわ」

とレーシーは言うとにこっと笑った。

あの険しい表情は単なる脅しだったようだ。


でも、今の彼女の笑顔を見ていると本当に弾けるような気がしてくる。同時にお嬢の顔が浮かんだ。


 お嬢に会ってなかったらこの感覚は味わえなかったんだろう。そしてあの先生にピアノを弾かされなかったら、この音色にも出会えていなかったんだろう。

今お嬢と長沼先生に少し感謝している。

その気持ちが言葉に出た。


「そうかぁ……弾いてみたいな。自分の音を」


「大丈夫よ。亮平の音は自然の音よ。空間に佇んでいる音の粒よ。亮平はちゃんとそれが弾けるようになるわ」

レーシーはそう言うと笑って

「次は何を弾いてくれるの?」

と聞いてきた。


 僕はちょうど鍵盤においていた右指がモーツァルト「キラキラ星変奏曲」の始まりの場所だという事に気がついた。折角なのでそのまま弾いてみた。


この曲は今のレーシーとのこの空間にとってもお似合いの曲に思えた。

軽いタッチで僕はこの曲を弾いた。

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